「こんばんは、祐一君」

 聞き覚えのある声が、まどろんでいた俺の目を覚ます。目を開くと、そこにはあの少女がいた。

「……お前か。せっかくいい感じで寝てたのに」
「やだなあ、祐一君。これも夢の中だよ?」
「……どうせならもっと楽しい夢が観たかった」
「酷いよ〜」

 少女がむくれる。相変わらずそういうところは子供っぽい。

「せっかく今日はキミに警告してあげようと思ったのに」
「……警告?」
「そう、もうすぐキミに新しい災いが降りかかる」
「…………!?」

 寝ぼけ気味の俺の意識が、急激にクリアになる。

「大丈夫だよ。キミの力は本物だから。……それに、キミにはもう仲間がいる。彼らだって、決して無力じゃない。絶対キミの力になってくれるから」
「…………」
「怖い?」
「いや、怖くない」
「そっか。それなら平気だよね?」

 安心したように、少女はほっと胸をなでおろす。と同時に彼女の姿がすうっ、と薄れていく。

「……もう時間みたい。もっとキミとお話したかったけど、それはまたこの次かな?」
「……まあ、この次に会ったらもうちょっと面白い話でも用意してくれ」
「あはは。じゃあ、考えておくね。それじゃ、また会おうよ」

 笑顔で手を振りながら、少女は消えていった。

「…………災い、か」

 その言葉をかみ締めて、俺は再び眠りについた。




P-KANON ACT.9




 目覚めた朝。その朝は昨日と何も変わっていない。起きてダイニングに行けば、皆が揃って……え?

「おはよ、祐一」
「おう、おはようなゆ……き……」

ざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざ!!

 俺は反射的に後ずさって、名雪と距離を置く。あの名雪が自力で起きてきて、しかも俺たちと普通に朝飯を一緒に食べる!! これ以上の異常事態はない。

「その反応はさすがに酷いよ、祐一〜」
「嘘だ! お前が自力で来るなんて、ありえん!! 今日は天変地異の前触れに違いない!!」
「それも酷いよ、わたしだって、たまには一人で起きれるよ〜」
「あらあら、祐一さんも大げさですね」

 微笑みながら、秋子さんが朝食を運んできた。ただ、その笑みには、どこか困ったような表情が読み取れる。

「とは言っても、わたしもさすがにちょっと驚きましたが」
「お母さんまで〜」

 さすがにちょっといじめすぎたようで、名雪が本当にちょっと泣きそうになってきた。秋子さんも笑みが消え、そこには本当に困った表情だけが残る。からかうのもこの辺にしておくか。

「祐一、風邪はもう平気?」
「おう、ばっちりだ。今日からはニュー祐一と呼んでくれ」
「うん、ニュー祐一」
「……そこで本気にしないでくれ、名雪」

 がっくりとうなだれる。ボケに素で返されると、ちょっとへこむ。

「相沢君、今日から戦線復帰できるか?」

 久瀬が切り出してくる。昨日まで、風邪を引いて療養していた俺だが、風邪が治った以上、いつまでも寝てるわけには行かない。……それに昨日の夢も気になるしな。

「ばっちりだ。今なら何が来ても平気だ」
「そうか、じゃあ、今日から水瀬さんと合流しよう。昨日まで君の代わりにリーダーを務めてた折原君に礼を言うのを忘れないでくれ」
「ああ、すまんな、折原」
「その誠意は……そうだな、昼飯3日分で勘弁してやる」
「ぐあっ……まからんか、それ?」
「何、足りないとな? なら、5日分」
「増えてるじゃん!!」
「7日分、9日分……ほーれ、どんどん増えてくぞ〜」
「……3日にまけて下さい」
「……よーし、それで手を打とう」

 ……教訓。こいつに借りを作ってはいけない。



 今日は日曜日なので学校は休み。かと言ってすることも特にない。ロビーで漫画を読みながら、音楽を聴いてると、

「あら、相沢君は随分と余裕ね」

 香里が皮肉を言ってきた。いきなりの皮肉にさすがにカチンと来た俺は、香里に向きなおし、

「どういう意味だ、香里」
「だって、今週の水、木、金と中間考査があるのに?」

 香里の言葉に、一瞬俺の脳みそがフリーズを起こした。

「……聞いてない」
「聞いてないって、掲示板に大きく張ってあったじゃない。知らない?」
「……知らない」

 香里ははあ、とため息をつく。

「そういえば相沢君は知らないかもしれないけど、うちの学校は担任が考査の日取りや範囲を教えないからね。あたしたちは、いつも職員室前の掲示板から、考査の日程と範囲を調べるの。まあ、教えなかったあたしたちもあたしたちだけど、それを知らずにのんびりしていた貴方も貴方ね」
「…………いっかあああああああああああああああああああああああああん!!」

 俺は立ち上がり、大慌てで教科書とノートを取ってくる。

「香里、今回の範囲はどこからどこまでだ!?」
「そ、そんなすごい顔で頼まなくても……分かったから、とりあえず落ち着いて」
「美坂あああああああああああああああああああああああああ!!」

 北川が慌てて階段から降りてくる。その手には教科書とノート。

「すまん、ここがどうしても分からん! ヒントくれ、ヒント!」
「ちょ、ちょっと北川君まで……」
「お姉ちゃあああああああああああああああああああああああああん!!」

 またしても階段を駆け下りる影。その声は紛れもなく栞のものだった。その声は今にも泣きそうな声。

「ここの公式がどうしても分からないの! 教えてお姉ちゃん!」
「ここ……ってこれ、中学の二次方程式じゃない!!」
「受験でやったっきり、忘れちゃったの!」
「はあ……しょうがないわねぇ……」

 こうして、香里を交えた、俺たちのささやかな勉強会が始まった。



 一通り、授業の範囲と解き方を教わる頃には、ちょうど太陽が頂点に達しようかという時間だった。

「と、まあ、こんな感じかしら? 何か質問はない?」
「特にない、な」
「おう、相変わらず美坂の教え方は上手いな」

 北川の言うとおり、香里は教え方が上手い。自分で理解していることを、ただ伝えるのではなく、どうすれば効率よくその解に達するかを、理路整然として教えてくれるので、分からない、ということがない。

「お姉ちゃんの教え方は上手ですよね? わたしも受験の時には、随分助けられました。中学時代はずっと休学してたから、補習でも分からないところはお姉ちゃんに教えてもらってたんですよ」
「……それは貴方が復学したときに、絶対授業についていけないだろうと思って、必死に勉強しただけよ」
「へー……」
「……まあ、結果として、学年トップになるまでの頭の良さになっちゃったのは怪我の功名というべきかしら」

 ……何!? 香里って学年トップだったのか!? 初めて知ったぞ!

「ま、そのおかげで俺らも教えてもらえるわけだし、大助かりだけどな」
「お前はそれにおんぶに抱っこというのも問題だと思うぞ」
「う……」
「確かにこれからは、北川君に教えるのをやめてもいいかもしれないわね」
「そ、そんな〜」

 泣きそうな表情の北川を見て、俺たちは笑った。



 夜になり、いよいよ影時間が近くなる。俺は準備を済ませて作戦会議室で待機する。どうやら、早く来すぎたようで、俺以外には誰もいない。しばらくくつろいでいると、名雪がやってきた。

「あれ、祐一、今日は早いね」
「そうか?」
「うん、いつももうちょっと遅く来るから、ちょっとびっくりしちゃった」
「……俺は今日の朝以上のサプライズはないと思ってるけどな」
「うー、それはもう忘れてよ〜」
「わかったわかった。他の皆は?」
「うん、もうすぐ来ると思うよ」

 名雪がそう言うと、俺はそれ以上何も言わずに、皆を待つことにする。しばらくの時間を置き、久瀬をはじめとするメンバーが、一斉にやってきた。

「皆揃ったな。よし、今日の分担を発表する」

 久瀬は俺たち新人メンバーを駅前通りに、折原、長森さん、舞を繁華街付近の調査に回し、久瀬と斉藤は情報と指示出しのため、待機。佐祐理さんも寮に残って、澪たちの警備を担当する。

「……以上だ。異存はないか?」

 誰も声が上がらない。彼の配分に納得している証拠だ。

「よし、それでは今日の作戦を開始する。出撃!」
『了解!』



 緑の夜空の下、通る人影はない。見慣れた景色に混じる棺のオブジェが、相変わらず不気味だ。
 その静寂の夜の中、何かがうごめく。

『見えたか? シャドウ反応3体! 速やかに迎撃だ!』
「オッケー!」

 北川が剣を構えて、はしゃぐように振り回す。

「おい、北川! あんまり調子に乗ってると、こないだみたいに痛い目見るぞ!!」
「だーいじょうぶだっつの。ここ最近、何か俺負ける気しねえし」

 ……駄目だ、調子に乗ったこいつの耳には俺の説教なんて届いてない。確かにここ最近の作戦でも、北川の活躍は目ざましいものはあったが、こういうところで思わぬ弊害を招くことになるとは思わなかった。
 俺の頭の痛い悩みなんて無視するかのように、シャドウはその姿を現す。それは俺たちがよく戦う、スライムみたいなタイプのシャドウ。

「……雑魚だな。ペルソナは温存して、各自武器で戦ってくれ」
『了解!!』

 この程度の相手なら、一目で雑魚と判断できるくらいには俺たちは成長している。
 北川の剣が閃き、香里の拳が砕き、名雪の短剣が切り裂く。その攻撃で、スライムタイプの1体は消滅した。

「ほーら、大丈夫だろ?」
「あほ、それは雑魚の場合だろうが! もしこの間のような大型のやつが出てきたりしたら……!?」

―――――――――

 ……? 今のは、なんだ? ……声、みたいだったが……

「祐一!! 前!」

 名雪の叫びが届く。
 はっとすると、シャドウの爪が間近にまで迫っていた。間一髪、それを受け流し、カウンターの一撃を食らわす。手ごたえあったようで、それはシャドウの仮面を砕き散らす。仮面を砕かれたシャドウはそのままとろりと溶けてしまった。

「祐一、どうしたの?」
「え……?」

 名雪が俺の背に張り付き、心配そうに声をかける。

「だって祐一、さっきちょっとボーっとしてたよ」
「……そうか? ちょっと疲れてるのかもしれないな」
「そんなふうには見えなかったけど……」

 なおも食い下がる名雪だが、シャドウの攻撃がそれを遮る。名雪は軽いサイドステップでそれをかわし、隙だらけの状態となったシャドウに短剣を突き立てる。その一撃で、最後のシャドウは消滅した。

「ふう……」
「相沢君、本当に平気?」
「香里まで同じ事言うんだな。俺は平気だぞ」

 確かに戦闘中にボーっとしてたというのは、問題だったかもしれないが、肉体的には何の異常も見られないし、おそらく平気だと思う。

「……名雪、ちょっと聞いていいか?」
「なあに?」
「その……戦ってるときに、変な声が聞こえなかったか?」
「声……?」

 きょとんとした表情を浮かべる名雪。

「ううん、全然」
「……だよな」
「おい、相沢。幻聴が聞こえるようじゃ、ちょっとやばいぞ?」
「……単なる聞き違いだろ。大体、影時間で俺たち以外の声が聞こえるはずが……?」

――――

「……聞こえた」

 確かに聞こえた。今度ははっきりと……だが、何を言っているのか、よく分からない。

「ゆ、祐一さん? わたしには何も聞こえませんけど」
「ちょっと、相沢君。ほんとに大丈夫?」

 栞と香里が、心配そうに俺の顔を覗き込む。

「いや、本当にはっきり聞こえるんだ。耳を澄ませると……」

――――いで

「ほら!?」
「祐一、わたしには何も聞こえないよ?」
「嘘だろ? だってこんなにはっきり……」

――――おいで

「誰かが、呼んでるんだよ」
「お、おい、相沢……?」

――――おいで

「あっちから聞こえる……」

 俺は声の聞こえた方角を指差す。

「え? あそこって……」
「常春駅……?」
「行ってみよう……」
『祐一(相沢)(君、さん)!?』

 仲間の抗議の声すら遠くかすんで聞こえる。
 俺を呼ぶ声がより鮮明に聞こえてくる。
 心地よく聞こえる呼び声に耳を傾けながら、俺は歩を進めていった……



『久瀬君、聞こえる!?』

 香里の必死の呼びかけに、久瀬は眼鏡をかけなおし、通信機の言葉に耳を傾けた。

「ああ、何かあったのか?」
『相沢君の様子がおかしいの! あたしたちの声に全然反応しないで、勝手にどこかに行こうとするみたい! ごめん、あたしたちは、相沢君のフォローに回るから、こっちの担当を誰か回してもらえないかしら!?』
「なに……?」

 久瀬は当惑した。彼自身、これまでの実績から、祐一のことは高く評価していたし、CCDや、通信機を通して、彼が独断行動をするタイプとは思えなかった。
 その彼が、場を乱す理由が、どうしても分からなかった。

「美坂さん、相沢君のことで、何か気づいたことはないか?」
『……声が聞こえるとか、言ってたわね』
「声……?」
『ええ、常春駅の方からはっきり聞こえるって、そう言って、歩き出したの……』
「それは君たちには……」
『全然聞こえないわ。聞こえてるのは、相沢君だけみたい』
「なるほど……ちょっと待ってくれ。英二、相沢君の様子がおかしいようだ。お前の能力で相沢君の状態を調べてほしい」
「了解」

 斉藤はそう言うと、ミーミルを召喚し、精神を集中させた。そして、心の奥にある広い海の中へ潜る感覚を覚える。そして、その中にある、祐一の意識を手繰り寄せる。その中を覗こうとしたその瞬間、

バチッ

「がっ!?」

 激痛が斉藤を襲った。
 その激痛に耐え切れず、斉藤の意識は途絶え、倒れた。

「え、英二!?」

 突然悶え、倒れた斉藤の様子にただ事ならぬ様子を感じた久瀬は、一時、指示を中断し、斉藤の下へ駆け寄った。

「おい、英二、しっかりしろ、何があった!?」

 斉藤のほおを叩き、意識を目覚めさせる久瀬。斉藤は自分を苛んだ痛みの余韻がまだ残る身体で、口を開いた。

「あ、相沢の意識に侵入しようとしたら……」
「……どうなったんだ?」
「な、何かに拒絶されて、はじき出された……こんなこと、初めてだ……」
「なっ……!?」

 久瀬は驚愕した。斉藤の能力の一つ、アナライズは、すべての人間の心の奥底にあるといわれる普遍的無意識と呼ばれる領域に潜り、そこから他人の情報にアクセスするというものである。あくまで分かるのはその人物の表面的な情報だけなのだが、これを応用して、シャドウの情報を入手していたのだ。しかしそれでも、情報が読めないということはあっても、いきなりはじかれるということは今までなかった。

「英二、それはどういう感じだった?」
「……入ろうとした瞬間に、別の何かが妨害をかけてきたっぽい……相沢自身の意思は感じられなかった……」
「ということは……」
「十中八九……シャドウだな。それも、かなりの大物クラス」

 二人はそう結論付けた。久瀬は斉藤を寝かせると、即座に通信機のスイッチを入れ、香里に繋ぐ。

「美坂さん、相沢君の近くにいてやってくれ。どうやらシャドウの精神攻撃にやられたらしい」
『なんですって……!?』
「そっちのフォローには折原君たちを行かせる。君たちはそのまま全員で相沢君の後を追ってくれ。何かあってからでは遅すぎる」
『……了解。何か会ったら、また連絡を入れるわ』
「充分に警戒してくれ。おそらくかなりの使い手だ。勝てないと思ったら、即行で逃げてくれ」



―――――――――おいで、さあ、こっち

 それはとても甘美な声。母親が子に呼びかけるようなそんな声。

「………………!! ……きに…………!!」

 そこに混じるノイズがうるさい。

―――――――――はやくこっちにおいで

 その声はどこまでも優しく、俺を包み込む。その声が少しずつ大きくなる。声の主は、近い。俺の心の中は、早くその声の持ち主に会いたい、という思いだけでいっぱいになっていた。

「……か…んに…………や………!! ………わ!!」

 それにしてもさっきからノイズがうるさいな……

「………さん……!! …………かり…………い!!」
「…いざ……ん! …………まし………!!」

 だからうるさいっての。

「それ、ほんとにノイズかな?」
「え……?」

 はっきりと聞こえた女の子の声。はっとして、目を向けると、あの少女が俺の目の前に立っていた。

「お前、どうして……」
「ボクはいつだってキミのそばにいるって前に言ったよ」

 少女は軽く微笑むと、すぐに真剣な眼差しで俺を見つめる。

「そんなことより、ほら、よーく耳を済ませてみて。キミがうるさいと思ってるノイズがなんなのか」
「何……?」

 俺は彼女の言うとおりにノイズに耳を傾ける。

「…………きにもど……よ!」
「お…………げんに……れ………ざわ!!」
「……………さん………しっか……………!」
「……ざわくん…………ましな……!」

 やっぱりうるさいノイズにしか聞こえない。

「本当に? ほら、もっともっとよく聞いて」

 言われたとおり、よくノイズを聞いてみる。

「……さま……ゆ…いち!」
「……ろ……ざわ!」
「ゆ……ちさん…う………ん!!」
「……こえな………あい……わくん!」

 これは……誰かの声?

「ね? もっとよく聞いて。その声が誰なのか。そして、誰に向けられたものなのか」

 俺は目を閉じ、集中して、その声に耳を傾ける。

「祐一! おね……から……に戻って!」
「みな……のこ………えないの……相沢!!」
「そん……祐一さん……いです!!」
「いい……んにめを……………相沢君!」
「俺を……呼んでる?」
「そうだよ。さあ、その声が聞こえたのなら、その声に応えてあげて」

 俺は誰かにぐっと腕をつかまれる。腕を見ると、そこには誰かの手。そして、俺はその手の持ち主の顔を見る。それは俺がよく知る顔。

「目を覚ましてよ、祐一!」
「……名雪……?」

 俺の顔を見て、呆然としたかと思うと、名雪の目から涙がこぼれる。

「よ、よかった……祐一、正気に戻ったんだね……」

 名雪が心底ほっとしたような表情で涙をぬぐう。

「ったく、心配かけやがって……」
「ふう……あんまり迷惑かけないでよね、相沢君」
「よかったです……ずーっと呼んでも返事しないから……本気で心配しちゃいました……」

 ぐるりと首を回せば、そこにはいつもの仲間たち。

「俺は……」
「覚えてない?」
「いや、声を聞いてから、その声がする方に行こうとしたところまでは覚えてる……」
「そっか。あの後、祐一、わたしたちの声も聞こえなくなったようにふらふらと駅まで歩いて行っちゃったんだよ」
「駅ぃ?」

 俺は改めて周囲を見渡してみる。そこは入寮初日に利用した常春駅の構内。どうやらプラットフォームへ下りる階段の途中まで来ていたようだ。

「なるほど……」
「相沢君、もう平気?」
「ああ、多分。すまなかったな、名雪」
「ううん、平気だよ」
「よっし、それじゃ戻ろうぜ。今、折原たちが俺らの穴を埋めてるからな」
「うわ……またあいつに借り作っちまった……」

 また昼飯おごりの期間が延びるな……そんなことを考えつつ、俺たちは階段を上がっていった。



 階段を上がってから、しばらく、いや数分もしないうちに俺たちはその異変に気がついた。

「…………おかしいぞ、これ」
「どうして……?」

 俺たちが階段を上っても上っても、フォーム同士を繋ぐ空中廊下に着かない。普通に考えればそんなに長い階段じゃないはずなのに……

「おいおいおい、どうなってんだ、これ!?」
「あたしたちでは分からないわね……。久瀬君に聞いてみましょ……」

 香里が通信機のスイッチを入れた瞬間、

「うっ……」

 香里が顔をしかめる。

「どうした、美坂!?」
「ノイズがひどくて……通信機が繋がらない」
「……!?」

 香里の言葉に愕然として、俺も通信機のスイッチを入れる。が、ひどいノイズが耳をつんざき、俺は慌ててスイッチを切る。

「駄目だ……こっちも繋がらない……」
「ちょっと待て、それって俺たち、八方塞がりってわけか!?」
「どうしよう……」

 名雪が本格的にうろたえだす。正直、焦っているのは俺も同じなのだが……ここでそれを顔に出すわけには行かない。そんなことをすれば、皆の心がたちまち折れる。
 全員がどうすればいいのかを考えていると、香里がポツリとつぶやいた。

「……下に降りてみない?」
「香里?」
「上に行こうとしても駄目なんでしょ? でも、あたしたちは下に降りるのだけはまだ試していない。それに……」
「それに?」
「もしかしたら、相沢君を操ったシャドウが近いのかもしれないわ」
「あ……!」
「そいつはおそらく相沢君を自分のところへ連れていきたくて、操っていたんでしょう?だとすると、この現象はおそらく、そこから遠ざかろうとするあたしたちを阻止しようとしているんじゃないかしら? 何で相沢君なのか、までは分からないけどね」
「な、なるほど……」
「ね、ねえ、お姉ちゃん、それって……」

 震える声で栞が訊ねるが、その言葉は最後まで言えない。

「……最悪、あたしたちだけで大物のシャドウと戦わなければいけないわね。いいえ、逃げられない以上、そうするしかない」
「…………」
「相沢君、どう思う?」
「……多分、香里の言うとおりだと思う。俺たちが引き返すことが出来ないのならば、前に進んで戦うしかないだろう……」

 全員の顔が青くなる。

「じょ、冗談じゃねえぞ!?」

 突然北川が叫びだす。恐怖のあまり、顔が引きつっている。

「北川君?」
「お前のミスで引っ掻き回されて、何で大物まで俺たちだけでぶっ倒そうなんて話になるんだよ!?」

 俺を指差し、非難する北川。そういわれても仕方がないと思い、俺は何も言わずにそれを受け止める。

「き、北川君、落ち着いてよ!?」
「お、俺はごめんだぞ!? やるならお前らだけでやってくれよ!」

 北川は、そう言って立ち上がり、階段を駆け上がる。上っても先が見えない階段を。

「ちょ、ちょっと、北川君!」
「追いかけよう! 言えた義理じゃないが、今の状況で単独行動はまずい!」



「ちっくしょう……本当に上っても上っても着きやしねえ……」

 北川はぼやきながら階段を上っていた。
 先ほどから疲労が足に蓄積し、一歩一歩がとても重い。

「…………」

 しばし、北川は黙々と階段を上り続ける。

「……皆、どうするつもりなんだろうな……」

 ぽつりと、独り言をもらした。
 独りになり、急激に頭が冷えてきた辺りから、北川は、自分の行動を冷静に見つめなおしていた。

「くそ……俺、かっこ悪ぃ……」

 頭を抱え、自分の失態を思い出し、恥と後悔をかみ締める。

「やっぱ戻ってみんなと戦うかな……いや、今さらそれもかっこ悪いか……くそ、半端だよな、俺って……」

 周囲のことなど上の空に、ぼんやりとそんなことを口にする北川。ゆえに彼は気づいていなかった。目の前に立っていた異形に。

どしんっ

「おわっ! な、何……?」

 北川が何かにぶつかり、尻餅をつく。顔を上げると、そこには一体のライオン。

「うわあ、何でこんなとこにライオンが!?」

 北川は立ち上がろうとするが、それより早く、ライオンの鋭い爪が北川に振り下ろされる。
 ちょうど胸の辺り。そこに、三本の爪痕が刻まれる。血がしぶいた。

「あ……」

 痛みよりも、自分の血に驚く北川。自分の血がこんなふうに噴き出すところを始めて見た。
 それを自覚して、遅れてやってくる激痛。

「北川
―――――――――!!」

 誰かが俺を呼んでいる。そんな声を聞きながら、北川の意識は遠のいていった。



 俺たちが北川を追いかけていると、そこには北川にのしかかり、牙を向けている鉄球つきの首輪をぶら下げた一匹のライオンの姿。

「な、何でこんなところにライオンがいるの!?」
「こんなところに普通のライオンがいるわけないだろう!」
「じゃあ、あれもシャドウなんですか!?」
「おそらくな。急いで北川を助けるぞ!」

 俺は刀を抜き、北川にのしかかっているライオンに横薙ぎに斬りかかるが、鉄球をつけているとは思えない俊敏な動きでライオンはそれをかわす。
 そして、壁を蹴り、俺に飛び掛る。その動きに翻弄されて、俺はそいつに押し倒されてしまった。
 ものすごい力で押さえつけられ、身動きが取れない。腕をがっちりロックされているので、召喚器も取り出せない。
 そして、ライオンの牙が、俺の首筋に焦点を当てる。

「くっ……」
 絶体絶命の状況。そこに、

ビシッ

 ライオンの身体に何かがめり込み、一瞬、拘束する力が緩む。その隙を逃さず、ライオンの腹に蹴りを入れて、俺はライオンの腕から逃れる。
 今のは……

「大丈夫ですか!? 祐一さん!」

 栞が俺に呼びかける。手にしているリボルバーにはまだ煙の尾が伸びていた。どうやらおれが飛び掛られたのを見て、援護射撃してくれたらしい。

「すまん、助かったぜ、栞!」
「お安い御用です!」
「栞はそのまま北川の治療を頼む! こいつは俺たちで何とかする!」
「わかりました! 祐一さん、気をつけてくださいね!」

 自由になった俺は素早く召喚器を抜き、こめかみに押し当てる。

「来い、ヘズ!」

 銃声と共に、俺の内から呼び出されるヘズ。
 ヘズの火炎がライオンの皮膚を焼く。普通のライオンなら火を怖がるものなのだろうが、生憎、やつはシャドウだ。この程度ではひるまない。それどころか、殺意のこもった目で俺をにらみつけている。
 しかしこいつは忘れている。お前の敵は俺だけじゃない。

「フレイア!」
「シフ!」

 名雪の吹雪が、香里の電撃がシャドウに襲いかかる。シャドウは身悶えし、慌てて俺たちから距離を置く。その距離が離れていて、俺たちの魔法の射程では、やつには届かない。
 それを察して、ライオンが奇妙な動きを見せる。いや、正確には首輪の鉄球が重力に逆らい、宙に浮く。そして俺たちは見た。それに張り付いたシャドウ特有の仮面を。

「ちょっと待て、まさか鉄球の方が本体なのか!?」
「そんな……!」

 鉄球が一回転すると、ライオンの身体が何かの光に包まれる。何事か、と思うと、ライオンがさっきとは明らかに異なる速度で飛び掛ってきた。その動きについていけずに、俺はライオンの攻撃をまともに食らう。

「ぐはっ……」

 胃液が逆流し、口に酸っぱいものがこみ上げる。遅れてきた衝撃で激しく吹き飛ばされ、階段を転げ落ちる。踊り場でどうにか踏みとどまったが、それでも全身の痛みが辛い。

「祐一、大丈夫!?」
「へ、平気だ……」

 階段を駆け下りて俺の様子を見に来た名雪に無事を伝えると、俺は刀を杖にして立ち上がり、構える。背を向けた名雪をフォローするように、香里が割って入っているため、追撃は来ない。

「気をつけろ……攻撃力が上がってる。一撃もらうと、かなりやばいぞ」
「わ、わかったよ」
「香里も! 気をつけろ!」
「わかった……けど! こ、このままじゃ、も、持ちこたえられそうにないわね!」

 香里の言葉の端々に力が入っている。シャドウのターゲットが香里に移り、爪の攻撃を香里に振るっている。香里はかろうじてかわしているようだが、それにも限界が近いようだ。

「任せろ! 行け!」

 俺はヘズを召喚し、炎を鉄球に浴びせかける。どうやらこれが大当たりだったようで、ライオンが激しく悶え香里の攻撃の手が緩む。
 やはり本当の急所は鉄球か!

「香里、鉄球を叩け! こいつの弱点は鉄球だ!」
「OK!」

 猛攻の隙をつき、攻撃に転じた香里の蹴りが、正確に鉄球に突き刺さる。これは効いたようで、ライオンが思わず後ずさりする。

「止めだよ!」

 そこに名雪の追い討ちの吹雪が鉄球を凍らせる。氷がひび割れ、鉄球を道連れにして粉々に砕ける。
 次の瞬間、ライオンの身体がびくんと震え、倒れると、その身体はバターのように溶けていった。

「ふう……しかし、危なかったな。もし栞がいなかったら、俺はあの時に首を食いちぎられていたな」
「そうだね……」

 そう言い、名雪は安堵のため息を漏らす。が、すぐにはっと顔色を変える。

「北川君! 大丈夫かな!?」
「そうだ、北川!」

 俺たちは急いで北川のいた場所まで駆けつける。そこではエイルの回復魔法で治療を受け、止血された北川の姿があった。が、意識が戻っていない。その様子を見て、栞がうろたえている。そしてもう一人……

「ちょっと、北川君、いい加減に目を覚ましなさいよ!!」

 香里が目を開けない北川のほおを叩き、胸倉を揺さぶる。が、北川は一向に反応を示さない。

「おい、香里、その辺にしないと北川の傷に障るぞ……」
「くっ……」

 俺の言葉に、香里は手を止め、北川を再び横たえる。北川はくたりとなって、動かない。

「……そうだ!」

 栞が、制服のポケットをまさぐり、何かを取り出す。出てきたのは、透き通った小さなドロップ飴のようなもの。

「これを試してみてください!」
「栞、これは何だ?」
「澪ちゃんからもらった、わたしたちペルソナ使いによく効く薬だそうです!」
「薬って……どう見ても喉にいいドロップ飴にしか見えないぞ」
「でも、今はそんなこと言ってる場合じゃないです! 試せるものは何でも試してみないと!」
「……栞の言うとおりだな。処方箋は聞いてるか?」
「口に含ませるだけでいいそうです」

 栞の言うとおりに、俺はそのドロップのようなものを北川の口に放り込む。
 しばらくは何も起きなかったが、やがて、北川の眉が動き、うっすらと目を開く。

「…………お?」
「北川君!?」
「あれ……俺はどうして……? ……そうだ、ライオン! ……っていねえし」
「さっきのシャドウならわたしたちが倒したよ」
「シャドウ? そっか、あれはシャドウだったのか……って、何でお前らがここに!?」
「気づくの遅すぎだ、北川」

 ふう、とあきれのため息を、俺は漏らす。北川は俺たちの顔をじっと見つめたと思うと、うつむき、目をそらした。

「……何で来たんだよ」
「ちょっと、北川君? 何言ってるの?」
「だってよ……あんだけみっともないとこ見せてさ……そんで……」
「ばーか」

 ごつん、と。俺は北川の頭を叩く。

「って……」
「それはおあいこだろうが。俺だって、さっきはシャドウに操られて、一人でふらふらどっか行こうとしただろうが」
「…………」
「けど、名雪たちやお前は俺を追いかけてきただろう? それは何でだ? 言ってみろ、北川」
「……そりゃ、お前が独りで出歩いたら、危ねえと思ったから……」
「だろ? それと一緒だ」
「…………」
「わかったか? 北川。お前は俺たちに必要とされてるんだよ。見捨てるつもりなら、最初から追いかけたりしない」
「相沢……」
「ま、後で借りは返してもらうけどな。折原の昼飯おごりの負担、半分お前が持て。それで勘弁してやる」
「はは……たっかいな、それ」

 俺が手を差し出すと、北川はぐっとそれを握り返す。握った手をぐっと引っ張り上げて、北川を立たせる。北川は服についた汚れを軽く払い落とすと、

「あー……皆、すまんかった!」

 勢いよく、頭を下げた。

「わ、北川君、そんなに深く謝らなくても……」
「いや、今回のことは俺が軽率だった! 許してくれ!」
「も、もういいわよ、北川君。頭上げて……」

 その様に、名雪と香里がうろたえる。どうしていいか分からないというより、北川の行動に戸惑ってるといった感じだ。
 しばらく顔を見合わせた二人だったが、意を決したかのように、香里が北川と向き合った。

「……はあ、分かったわ、北川君。許してあげるから、もう皆に迷惑かけないでね?」
「ほんとか!?」

 それまでとは打って変わって、いつものおちゃらけた表情の北川に戻る。

「いよっし、こっから心機一転、汚名挽回頑張るぜー!」
「汚名返上、ね」
「あれ、そうだっけ? まあ、いいや」

 そう言って、馬鹿笑いする北川。
 ……そこにはいつもどおりの北川がいた。



「……皆、よく聞いてほしい」

 北川の騒ぎが落ち着き、場が静かになったところで、俺は話を切り出す。

「俺たちは今、シャドウの術にはまって作戦室から孤立している。加えて、そのシャドウはかなり強力な相手だという予想がされている」
「……う、うん」
「この状況を打破するには、おそらく俺たちを閉じ込めたシャドウを倒すしかない。まあ、今思いついた手段だが、影時間が明けるまで待つという方法もあるが……」
「その方法で脱出できるかどうかは分からない。ついでに言えば、シャドウの問題を先送りにするだけ、と……」
「……そうだな。……どうする、皆? 俺たちに出来ることは二つだ。影時間が明けるまで待つか、シャドウを倒すか」
「…………」
「改めて聞く。……どっちにする?」

 全員が沈黙し、それぞれの考えを巡らせる。
 そして……

「……わたしは、戦うよ。怖いけど、逃げちゃいけないときがあるって知ってるから……」
「名雪と同意見ね。待っていても、結果は出ないもの」
「わたしも、待つのなんて嫌です」
「……さっきまではびびってたけどさ、今なら、そんなに怖かねえ。気づかなかったけど、俺も仲間だったんだよな」
「……何だ、皆答えは一緒か」

 コクン、と示し合わせたかのように皆がうなづく。

「……よし、皆、一緒にいくか?」
『おう(うん)!!』

 俺の言葉に、皆はぐっと、拳を握り締め、胸に構える。
 その時、

―――――――おいで

 俺を操っていたあの声が聞こえる。ただし、先ほどの甘美な声は嘘のように、気分が悪くなる耳障りな声に聞こえる。

「!! また、この声……」
「え、え、何、今の声?」
「!? 名雪、聞こえたのか!?」
「う、うん、すごく気持ち悪い声……」
「気分が悪くなりそうな声……」
「えぅ〜、気持ち悪い……」
「おい、相沢! こんな声に操られてたのか!?」
「……操られてたときには甘い声に聞こえたんだよ」

 苦しい言い訳だ。腹の中で苦笑しつつ、その声に耳を澄ます。

――――――――おいで

「……下から?」
「……だね」
「美坂の読みはビンゴ、みたいだな」

――――――――おいで

「…………降りるか?」

 俺は名雪たちの顔を見る。
 その顔はとても引き締まっており、今からの戦いへの覚悟を、その目に宿している。
 準備はOK、というところか。

「よし、行くぞ!!」
『了解!』

 俺の号令に皆は声を張り上げる。
 俺が先陣を切って下へと駆け下りる。その後を皆がしっかり着いていく足音を、俺は確かに聞いていた。



 駅のホーム。
 それはこれまで俺たちが戦ってきたシャドウとは明らかに違っていた。
 全体の姿は人間の女性。なのだが、そのあまりにも長い髪が触手のようにうねうねと蠢き、俺たちの周囲を取り囲んでいる。
 そしてその大きさ。明らかに普通の人の大きさを超えている。その白黒で彩られた身体が、大股開きで俺たちを待ち構えていた。それがいやらしさというよりはむしろ嫌悪感を誘う。

「男の人って、ああいう格好に弱いんじゃない?」

 香里が茶化して俺に囁いた。

「……俺はドン引きするね」
「あら、そう?」

 そういうものかしら、という顔をする香里。だが、すぐにその顔が引き締まる。

「……来るぞ!!」

 俺の合図をきっかけに。
 シャドウの髪が俺たちに襲いかかってきた!


Shadow Moonより

諸事情により、すみませんが感想は後日……


会澤祐一様への感想は掲示板へ。

戻る  掲示板