早いもので俺が転入して一月が経ち、ゴールデンウィークも明け、また学園生活が始まった。
 が、今の俺はちょっと憂鬱な気分だ。
 それというのも……

「相沢君って、倉田先輩と川澄先輩の二股かけてるらしいわよ……」
「えー、あたしはヒモって聞いたけど?」
「ちくしょう、何で相沢ばかり……」
「相沢祐一……許すまじ……」

 ……これである。
 どういうわけか、あの日の俺と舞、佐祐理さんの話が漏れている。しかも悪いことにそういう話に限ってとんでもない尾ひれがついて、それが独り歩きしている状態で、最早俺の手にも余る状態になってしまった。
 おかげでここ数日、男子からは殺意のこもった視線、女子からはいっそうの好奇の視線が向けられて、心の休まる気分ではない。
 ……余談であるが、噂を広め、それを尾ひれをつけて喜んでいたバカ約一名がいたのだが、そいつはその事実が発覚次第、即座に俺の二度目のエアリアルコンボが炸裂したというのは、まあどうでいい話だろう。

「……相沢」

 斉藤が俺の肩を叩く。

「どっちかにしとけよ」
「お前もかい!!」
「冗談だろうが」




P-KANON ACT.8




「すっかり噂になってるわね」

 昼休み。とりあえず人気のいない中庭で、昼食を取る。付き添いで香里や名雪、北川が付いてきた。一応、三人には時間をずらして集まるように言ってある。……これ以上ややこしい噂を流されてたまるものか。

「噂をばら撒いた原因は心当たりがあるんだがな……」
「それって、柚木さん?」
「……何で名雪がわかる?」
「だって、わたし柚木さんから携帯で直接言われたし」
「…………」

 あの野郎、確かに『メールでは』言いふらしたりはしなかったが、よりによって、直接言いふらすか!? 普通!?

「柚木さんに捕まったのね……。ご愁傷様、あの子に捕まったら、もう諦めるしかないわね」
「……対策はないか?」
「人の噂もなんとやらというしね。ほとぼりが冷めるまで待つしかないわね」
「とほほ……」
「大丈夫よ、本人、悪気があってやってるわけじゃないから。話せば、それなりにはいい子よ」
「それなりに、ね……」

 そういうやつほど余計性質が悪いことを俺はよーく知っている。そう、例えばあの折原のように……

「まあ、台風にあったと思え、相沢」
「はあ〜……」
「だーから、そんな辛気臭い面すんなって、な。……お?」
「なんだよ、北川」
「あれ……」

 北川が指を差すところには、一人の少女が黙々と弁当を食べていた。豊かな髪を三つ編みにした、遠目からでも目立つ容姿。結構可愛い部類に入るんじゃないだろうか。

「あれって里村さんじゃない?」
「知ってるのか? 香里」
「1年のときに同じクラスだったのよ。ほとんど印象に残ってないけどね」
「ふーん……」
「割とおとなしい感じの子だったな。ちょっと自己主張が足りないっていうか、あんまり誰とも話したがらなかったようだったよ」
「そうね、あたしも2、3回くらいしか話したことなかったわね」
「なあ、俺らのほうに誘わないか? あの子。……何か独りで食ってるっぽいし、寂しそうじゃん?」

 北川がどうにもこうにも下心見え見えな提案をする。

「……北川君、鼻の下伸びてる」
「うぇっ!?」

 香里の指摘に、ぱっと、鼻の下を抑える北川。……まあ、そんなところだとは思ってたがな。

「でも、北川君の言うことにも、一理あるわね。誘ってもいいかしら?」
「わたしもよく話してみたいし、OKだよ」
「よーし、決まりだな。それじゃ早速……」

 決まれば行動が早い北川。すたすたと彼女のところへ走っていき、気軽な雰囲気で、彼女に声をかけた。

「よっ」
「……何ですか?」
「いや、一人で飯食ってるみたいだからさ、よかったら俺たちと一緒に飯でも食わないかと思ってな」
「……嫌です」
「……へ?」

 いきなりの拒絶に二の句が告げず、呆然とする北川。まさかこんなにはっきりとNOと言われるとは思ってもいなかったのだろう。

「いや、そんないきなり『嫌です』って言われても……」
「わたしは一人で食べたいんです」
「そ、そう言わずにさ……」
「ご馳走様でした」

 食いかけの弁当を閉じ、そのままどこかへと歩き出す里村という少女。北川は一人たたずみ、どうリアクションしていいか分からずに、凍り付いていた。

「……随分はっきり自己主張できたんだね」
「いや、論点違うから、名雪」



「……それじゃ、ここの訳を……北川にお願いするか」
「うぇええっ!?」

 午後の授業。ろくに勉強をしてなかった北川が、いきなり指名され、露骨にうろたえる。

「おい、相沢、これ、なんて訳すんだ?」
「……あー、ここの訳なら『時計の針がチクタク鳴る静かな部屋を、わたしはこっそり出て行った』だな」
「さ、サンキュ、相沢」

 北川が礼を言う。
 その間、俺はさっきの里村と言う少女のことを考えていた。
 別に恋愛とかに結び付けようとは思っていないが、どうにも気にかかる。特に、あの態度。
 あれは舞の無愛想とは根本的にベクトルが違う。舞の場合は単純に感情を表すのが下手なだけ。だが、里村さんのあの態度は……人を完全に拒絶している。

「…………」
「……おい、相沢。指名されてるぞ」
「へ?」

 ずっと指名しているのに、反応を示さない俺に、先生をはじめ、他の生徒も、じっと俺を見つめていた。先生の方は、露骨に睨んでる。
 ……北川に指摘されるまで、俺はずっと、里村さんのあの態度を気にしていたことに気がついた。



「あー、里村さんのことが聞きたいのか?」

 俺は、「女の子のことなら、住井に聞いたほうがいいんじゃね?」という北川のアドバイスを受け、放課後、住井を呼び出して聞いてみたのだ。……ちなみに北川はその後に、「里村だけはやめとけ」という余計なアドバイスも忘れなかった。

「何だ、相沢、倉田先輩と川澄先輩だけじゃ物足りないってか?」
「違ーう!! その噂はとりあえず忘れろ!! ……ちょっと昼飯のときに偶然会ってな、昼飯誘ったら断られた。北川のやつが白くなってたな」
「なるほどなるほど……確かにあの子は手強いからな。里村茜。去年の非公式第1学年女子人気ランキングでも上位に食い込むほどの美少女だが、人を寄せ付けない性格から浮いた話はゼロ。ほとんどのクラスの人とも交流しないって話だぜ」
「そりゃまた随分徹底してるな……って、ちょっと待て、その非公式第1学年女子人気ランキングってなんだ?」
「決まってるだろう? 俺たち主催の暇つぶしイベントだよ」

 ああ、やっぱりか。まあ、その辺はどうでもいい。

「ああ、でも一人だけ里村さんによく話しかける女子がいたな」
「誰だ?」
「柚木だよ」
「げっ……」

 住井から出てきた名前に、露骨に嫌な反応をする俺。そりゃそうだ、この間偉い目に合わされて、二度と名前も聞きたくないやつの名前がここで出てくるんだから。

「誰かから聞いたんだが、里村さんと柚木は幼馴染らしくてな、昔は普通に仲はよかったらしいんだが、どういうわけか今は里村さんの方が一方的に柚木を避けてるんだよ」
「そ、そうか……」
「まあ、俺にわかるのはここまでだな。後はそっちで勝手に調べてくれ」
「おう、今度ジュースかパンでもおごってやる」
「よし! それなら焼きそばパンかカツサンドだな!」
「お前、それどっちも入手困難のパンじゃねえか!!」



「おっと、噂の人物はっけーん!!」
「て、てめえ、柚木!!」

 怒りで飛び掛りそうになった自分を抑えこむ。グッドタイミングかバッドタイミングか知らんが、こうして目当ての人物に出会えたのはラッキーだった。

「そんな怖い顔しないでよ。ちょっと2、3人に話したら、あっという間に広まっちゃったみたいでさ、あはは、参ったね」

 全く反省の色のない声色で、柚木は頭をかいた。

「参ったね、じゃねえ!! おかげで俺は偉い目に……っと、ここで問答しても、こいつにはぬかに釘刺すようなもんか」
「およ、難しい言葉知ってるね?」
「知らないお前がバカなだけだろうが。まあいい、こいつも何かの縁だ。今日はちょっと聞きたいことがある」
「ちょっと今の台詞にカチンと来るもんがあったけど、何?」
「里村のことについて聞きたい」
「え……?」

 思わぬ方向からの質問だったのだろうか、柚木は目を白黒させる。

「……茜の事を聞いてどうするわけ?」

 柚木の声色が変わる。親友である里村さんのことをどうするつもりなのか、警戒しているように感じる。

「いや、あの人を寄せ付けない態度がどうにも気になってな。ちょっとした好奇心だ」
「ふーん……」

 柚木はじっと俺を値踏みするような目で見つめる。

「なんだよ? その反応」
「……何人かの男子が茜に興味を持ってあたしに取り次いできたけどさ、君はなんとなーく他の人とは違うね」
「そうか?」
「うん、なんとなーくだけど」
「まあ、それはどうでもいい。あいつは一体どうしてあんなに人付き合いを避けるんだ?」
「……それは分からない」
「分からないって……」
「中3の頃に事故で友達を亡くしたっきり、あの子、どういうわけか、人付き合いを遠ざけてね。何度かあたしも言ってはみたんだけど……」

 ……確かに友達を亡くしたことはとてもショッキングなことだろうとは思う。だが、2年も立ち直れないほど仲のいい関係だったのか……?

「なあ、そいつって里村の……その、コレ?」

 俺はさりげなく、柚木に小指を立てる。

「はあ!? 違うわよ! 大体その友達って男だったんだから!!」
「あ、悪い……」

 さすがに今の質問には腹が立ったのか、柚木が全力で否定した。

「じゃあ、里村はそいつが好きだったとか?」
「……そうだったんじゃないかな。何度かそういう話をされたこと、あるから」
「なるほど……」

 それなら、まだありえない話ではないが、それでもいい加減に立ち直らなければならないだろう。死んだ人間をいつまでも想うことは否定しないが、それでも生きているときに永久に引きずり続けるわけにはいかない。きっぱりとどこかで区切りをつけ、現実に目を向ける必要がある。悲しいかもしれないが、それが生きていくということだ。

「…………」
「…………」

 それっきり、俺と柚木の間に沈黙が訪れる。時間に直して何分ぐらいか分からない。沈黙を破ったのは、柚木の方からだった。

「……相沢君」
「何だ?」
「よかったら、茜の話し相手になってくれないかな?」
「俺が?」
「うん、相沢君が話し相手になってくれたら、茜もちょっとは変わるかもしれないし。……あたしも、茜が今のまんまじゃいけないって、薄々感じてるから」
「…………」
「駄目……かな?」
「……ふう、わかったよ。どこまで出来るかわからないけど、やるだけはやってやる」
「……いい人だね、相沢君」
「別にいい人ぶりたいわけじゃない。単に純粋な好奇心だ」
「好奇心?」
「里村さんが笑ったら可愛いだろうと思ってな」
「……ぷっ」

 柚木は腹を抱えて笑い出した。

「あ、あははははははははははははは!! あ、相沢君って、け、結構きざなこと言えたのね!! あははははははははははははは!!」
「そこまで笑うか、お前!?」
「あっははははははははははははははははははははは……はあ、はあ、ふう、ごめんごめん。でも真剣な気持ちは伝わったかな。茜をお願いして、いいよね?」
「ああ、任せとけ」



 柚木の話によれば、毎月9日には、里村さんは住宅街外れの空き地でじっと突っ立ってるという目撃証言があるらしい。ちょうど今日は9日。俺はその場所に行ってみるのだが……

「迷った……」

 ……方向音痴の俺にはなかなかに難儀な作業でした。何しろちょっと混み入った住宅地というのはとにかく道が入り組んでいるので、ちょっと道を外すだけでどこをどう行っていいのか分からなくなる。で、教えてもらった道の一本を間違えて引き返しているうちに、どんどん訳の分からないところへ入っていってしまい、気がついたらこうなっていた。

「前も同じことがあったな、俺……」

 などと独り言を言っていると、

ぽつり

 冷たいものが俺のほおに当たる。空を見上げれば、灰色の雲。雲行きが怪しい怪しいとは思っていたが、やっぱり降ってきたか。
 かばんから折りたたみの傘を取って広げる。その内に、傘を叩く雨音が激しさを増していく。どうやら本降りになってきたようだ。

「参ったな、こりゃ……今日は仕方ない、諦めるか……?」

 そうつぶやいた俺の目の先には……
 本降りの雨の中、濡れながらじっと空き地でたたずんでいる見覚えのある女の子。

「いた……」

 俺の幸運に感謝しながらも、それ以上にずぶ濡れの里村さんが気にかかる。俺は彼女の元へ駆け寄る。

「おい!」
「……なんですか?」

 初対面の相手に随分と乱暴な声をかけてるとは思うが、そんなことは気にしてられない。
 彼女は俺を一瞥すると、

「……貴方、確か昼休みに水瀬さんや美坂さんと一緒にお昼を食べていた人ですね?」
「名雪たちを知ってるのか?」
「それなりに有名ですから」
「そうか、だがそんなことはどうでもいい。そんな格好でいたら風邪引いちまうだろうが! 傘がないんなら、ほれ!」

 俺は自分の差してる傘を里村さんに差し出した。

「……これは何ですか?」
「何ですかじゃない! 黙って俺の傘受け取って、雨をしのいでろ!」
「……いらないです」
「知るか! いいから受け取れ!! 風邪でも引かれたら、寝覚めが悪い!」
「何で貴方が……」
「俺も分からん!」

 渋る里村さんに、無理やり傘を手渡す。俺はとりあえず、制服の上着を被って雨をしのぐ。

「じゃあな、返そうと思わなくていいから、さっさと帰って暖かい格好でもしてろ!」

 そう言い残して、俺は後ろを向いて、帰り道を行こうとする。と、

「あの……」
「なんだ?」
「名前、知らないです」
「……相沢祐一」
「……里村茜です」

 名前は知っていたが、ここはあえて知らないふりをしておく。どうして名前を知っていたかどうか聞かれると、いちいち面倒だ。
 ただ、彼女が俺の名前を聞いてくるだけでもちょっとした進歩ではないだろうか?

「それじゃあな、里村さん、気をつけて帰れ」

 それだけ言い残して、俺は帰っていった。



 それだけ言い残して、彼は帰っていった。

「…………」

 無理やりに渡された傘を握り締める。彼の体温が残っているようで、手のひらがほんの少し温かい。

「何だったんでしょうかね……」

 彼との短いやり取りを少し思い出す。突然の怒鳴り声。濡れている私を見て、必死そうにしていた目。そして、強引に手渡された傘……

「…………」

 でも、いつ以来だろう。家族や先生以外の誰かから怒られたのは。
 そして、いつ以来だろう。
 私が誰かの名前を訊ねたのは。私が……誰かに自分の名前を自主的に名乗ったのは。



 寮に帰ってくる頃にはずぶ濡れ、身体は冷え、震えが止まらない。

「た、ただ今……」
「お帰り、ゆうい……わ、祐一、ずぶ濡れだよ!? 傘はどうしたの!?」
「……風ですっ飛んでった」

 もちろん、本当は里村さんに傘を渡したからだが、いちいちあーだこーだと説明するのが面倒なので、そういうことにしておく。

「とにかく、早くお風呂入って、身体を温めなきゃ駄目だよ!」
「そ、そうする……」

 速攻で風呂に湯を入れ、湯船で身体を温める。程よく温まり、濡れた制服を乾燥機にぶち込む。多少、しわが出来るのは覚悟の上だ。俺はとりあえずの上下ジャージに着替える。夕食の席につくと、秋子さんが心配そうに俺を見ていた。

「祐一さん、大丈夫ですか?」
「ええ、すぐに風呂に入りましたし、きっと大丈夫だと思いますよ」
「それならいいですけど……」
「心配性ですね、秋子さん。大丈夫ですよ、俺、若いですからめったに風邪なんか引きませんよ」

 無意味に元気さをアピールする。その様子を見て、秋子さんは「そうですか」と渋い顔ながらも、納得せざるを得なかった。



「ふぇっくしょん!!」

 俺のくしゃみが授業中に響く。翌日、やっぱりものの見事に風邪を引いてしまった俺。朝から、名雪も心配そうに俺を見ている。
 授業を一瞬妨害された先生が、迷惑そうに俺を見ている。

「……すいません」

 一言そう謝る。
 授業が終わる間、俺のくしゃみは軽く10回を超えていたんじゃないだろうか。

「祐一、ほんとに大丈夫?」
「ちょっとやばいかもしれな……ふぇ、ふぇっくしゅん!!」
「わ、つば飛んだよ、祐一」
「あ、悪い……」

 休み時間。本格的に調子が悪い。マジでいよいよやばいかもしれないな。

「悪い、今日、早退する……」
「うん、そうした方がいいよ。病院行って、ちゃんと風邪治してこなくちゃ、駄目だよ?」
「ああ……」

 席を立ち、かばんを取り、教室を出る。ちょっと顔が熱っぽいかもしれない。廊下を出る足取りが重かった。
 と、そこに、豊かな三つ編みの女子とすれ違う。移動教室らしいが、連れはいないようで、一人、すたすたと教室を目指していたようだ。彼女は俺と目が合うと、ぴたりと立ち止まる。

「……顔が赤いですね」
「……風邪引いた」
「……そうですか」
「お前は平気なのか?」
「おかげさまで」
「それは何よりだ」

 そう言って、俺は足を進める。そこを里村さんが呼び止める。

「……傘」
「傘?」
「D組の教室。後ろから2列目の窓際にある私の席に置いてますので、勝手に取っていってください。今なら教室に誰もいませんから」
「……そうか、そうする」
「では、お大事に」

 里村さんはそれっきり、こっちを振り返らずに別教室に向かっていった。



 以前世話になった病院での待合室。備え付けのテレビはお年より向けの時代劇の再放送が流されている。さすがに待合室とはいえ、携帯の使用はためらわれる。そうなると、暇つぶしにはこれだろう。俺は携帯プレーヤーを取り出し、ダウンロードしていた音楽を鳴らす。

――There’s no man’s land no man ever survived invisible hands’re behinds just now if you ever win that race against rage then you’ll be the King coz it’s no man’s land, for real……――

 聴きなれた歌詞が俺の耳に入ってくる。
 この瞬間だけ、ちょっと悦に入って時間を忘れられる。

「……君、相沢君!!」
「ん……?」

 誰かが俺の名前を呼んだ。はっ、となり、イヤホンを外して見渡すと、そこにはツインテールの女の子。片方のひざにはサポーターが巻かれている。

「やーっと気づいてくれたわね。さっきからずっと呼んでるのに、聞こえてないんだから」
「……えーと」
「……まさか、あたしのこと忘れたなんて言わないでしょうね」
「そ、そんなわけ……すいません忘れました」

 素直に頭を下げる俺に、はあ、とため息を漏らす女の子。

「しょうがないわね、あたしよ、七瀬留美」
「あ……ああ、大怪我して入院中の!」
「思い出したようね」
「怪我はもう大丈夫なのか?」
「ええ、骨はくっついて、今はリハビリ中。退院できるのは14日くらいになりそうだって」
「ふーん……」
「ってゆーか、今は授業中じゃないの? 何でここにいるわけ?」
「……風邪引いたんだ」
「そりゃついてないわね」
「名誉の負傷だ」
「???」

 不思議そうな顔をする七瀬さん。ま、そりゃそううだろう。今の一言で分かるやつなんて、いるものか。

「……そうだ。作戦にはいつから参加できる?」

 声のトーンを極限まで落として俺が聞く。ざわついた院内で、これが聞き取れるのは七瀬さんぐらいなものだろう。

「……!!? ああ、もしかして」

 一瞬七瀬さんは驚いたが、すぐ納得したようで、俺と同じくトーンを落として喋る。

「ま、そういうことだな。七瀬さんもそうなんだろ?」
「まあ、知ってるならとぼけても意味ないわね。ちょっとドジ踏んでこれだけど、来週からは、普通に参加できると思うわ」
「そっか、じゃあ期待してもいいか?」
「ええ、組んだときはよろしくね」
「おう、よろしく、七瀬さん」
「留美でいいわよ。こっちもこれから祐一、って呼ばせてもらうし」
「わかった、じゃ、退院したら頑張ろうか、留美」
「ええ、お互いにね、祐一」
『相沢さん、相沢祐一さん、第1診察室までお越し下さい』
「おっと、呼ばれたな。じゃな、留美。しっかり治せよ」
「そっちもね」



 点滴のおかげか、寮に帰る頃には随分と楽になっていた。名雪から連絡を受けていたのか、秋子さんが俺を出迎える。

「お帰りなさい、祐一さん。大丈夫ですか?」
「一応、今日一日は薬飲んでゆっくり寝て、明日には治しますよ」
「そうですか。では食事は部屋まで運びますから、今日はもう部屋で横になっていてくださいね」
「すみません……」

 言われるまま、俺は部屋に戻り、制服を脱ぎ、パジャマに着替えてベッドに寝る。不思議なものでベッドの中で横になっていると、だんだんと眠くなってくる。時計の針が1時を越えたあたりから、俺の意識は眠りに落ちていった。



 教室に帰ると、彼から渡された傘が消えていた。
 彼が持っていったのか、別の誰かか。おそらく前者だろう。
 だがこれで、彼との接点もなくなる。
 そう思うと、自然とため息が漏れた。そのため息は失望か、はたまた安堵を差すのか、私には分からなかった。

「相沢祐一……」

 詩子が勝手に話してきた転入生の噂。昨日話しかけた人がまさか彼だったとは、名前を聞くまでは分からなかった。
 曰く、水瀬さんの従兄で同じ寮に住んでいる。
 曰く、折原浩平率いる『非公式放課後享楽倶楽部』とか言う面子にも目をかけられたほどの逸材。
 曰く、あの川澄先輩や倉田先輩とも深い仲。
 話には聞いていたが、私にはこの上なくどうでもいい話であった。関わろうとも思わなかったし、どうせ私にはあの空間以上に居心地のいい場所なんてないと思っているのだから。……もうそんな場所なんて、どこにもないと知っているのに。
 でも、

「あ……私……」

 今になって気がついた。彼がいなくなってから、ずっと人を避け続けていた私が、久しぶりに、本当に久しぶりに自分から声をかけたことに。

「不思議な人……」

 自然にそんな感想が口から漏れていた。賑わう教室で、私の独り言を聞いていた人は、誰もいなかった。


Shadow Moonより

諸事情により、すみませんが感想は後日……


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