「……どうですか? 祐一さんの様子は」

 水瀬秋子は、モニターを見つめながら、先にモニターを見ていた久瀬貴明、倉田佐祐理に話しかけた。モニターには彼女の甥、相沢祐一の姿が映し出されている。あらかじめ、祐一の部屋に備え付けられた隠しカメラの映像だ。
 祐一がジャムを食べて昏倒し、斉藤英二が彼を部屋まで運んでから、祐一はそのまま、夢の中へと沈んでいったようである。

「はい、今のところ異常はないようです」

 佐祐理はモニターを見つめながら背中越しに秋子に答えた。

「そうですか……」
「……川澄さんからの報告によれば、彼は『影時間』を体感しているようですが……」
「ええ、間違いなく彼は『影時間』を体感しています。それはわたしも証人です」
「では、彼にはやはり……?」
「それは分かりません。しかし、可能性はきわめて高いと思われます」
「なるほど……」
「……さて、もうすぐ0時ですね」
「はい……」
「では、僕は準備をしてきます。今日の彼の監視は、佐祐理さんと秋子さんのお二人でお願いしますよ」
「はい、佐祐理に任せてください」
「貴明さん、気をつけてくださいね。留美ちゃんも大怪我をしたばかりですから」
「わかっています」

 久瀬は立ち上がり、部屋を出た。残ったのは佐祐理と秋子の二人。

「もうすぐ『影時間』ですね……」
「はい……」




P-KANON ACT2




 その少年は、特に何をするわけでもなく、深夜の街を歩き回っていた。少年は周りを見渡す。楽しそうに話すアベック。弾き語りをしている男。ナンパにいそしむチャラついた男。それに誘われて、どうしようか思案している女。くだらない。舌打ちし、足早に家に帰ろうとする。

 時刻はもうすぐ0時になる……

「……?」

 ふと、電気が全て消え、不自然な静寂が訪れた。戸惑い、周囲を見渡すと、人影はなく、変わって、不気味な棺のオブジェが立ち並んでいた。緑色のよどんだ月明かりが、少年を照らす。
 少年はこの時点で、自分が異常な体験をしていることに、気づく。呼吸が荒くなる。震えが来る。逃げたい、そんな衝動が湧き上がる。少年は目をぎゅっと瞑り、逃げ場を求めて一目散に駆け出した。

びちゃり……

 ふと、何か粘着質な音が耳に聞こえた。その音がどんどんとこちらに近づく。まるでこちらを追いかけているかのように近づいてくる。目を瞑った彼はまだ気がついていない。その音が、もう自分の足元にまで迫っていることに……
 突然足を掴まれ、彼は激しく地面に顔を打ち付けられる。痛みで何が起こったのかわからず、思わず目を開けた。
 彼の目に飛び込んできたのは、紛れもない異形。彼を掴んだ手は影のように黒く、また、常人のそれとは明らかに異なる、骨組みがないふにゃふにゃした腕、それが人の何倍にも伸びて、彼の足を離すまいと、がっしりと捕らえていた。そして、その腕の持ち主はもっと異常だった。それはたとえて言うならば、盛り上がった影。真っ黒な影が大地にシミのように広がり、こんもりと盛り上がっている。影からは、両腕が生え、その片腕が、彼を掴んでいた。そして、影にしっかりと張り付いた、無表情な仮面。

「!!?」

 少年の体がすさまじい強さで引っ張られる。抗い、アスファルトに爪を立てて抵抗するも、それ以上の強さで引きずられる。恐怖に駆られ、激しく腕を振り回し必死でもがく少年。だが、影は痛みを感じていないのか、引きずられる速度が緩むことはなかった。目前と迫る影の本体。少年は、その無表情なはずの仮面に、笑みが浮かんだように見えた……



 翌日、一人の少年が、路地裏で昏倒しているのを発見される。即座に病院に搬送されたが、意識はあるものの、医師および両親の言葉にも反応を示さなかった。いや、それどころか食事、排泄その他も、自分の力で行うことは出来ない無気力状態に陥っていた。
 ……少年はただ、無気力に壁を眺めているだけの廃人と化していた。
 こうしてまた一人、無気力症の患者がこの病院に増えたのだった。



 一方
――



「やはり、祐一さんには『象徴化』の現象は見られませんね」

 あごに手を乗せ、秋子はつぶやいた。

「はい、何事もなかったかのように眠っています」

 佐祐理もまた、モニター越しに、祐一が何事もなかったよう寝息を立てているのを見ていた。

「……もう疑いようがありませんね。祐一さんは間違いなく『適正者』です」
「はい……それにしても」
「どうしました、佐祐理さん?」
「こうやって、男の人の部屋を覗き見するなんて、ちょっといけない人のように思えますね」
「ふふっ、そうですね」
「あはは〜……」

 佐祐理がこんな冗談を言っていた頃……二人は、祐一が常人のそれとは明らかに奇妙な体験をしていることに気がつかなかった。



「こんばんは」

 誰かの声がした。
 目を開けると、そこには昨日俺の前に現れたあの小さな女の子。ぎょっとして、周囲を見渡す。ここは俺の部屋……そうか、あのあと、誰かが俺を運んでくれたのか……

「ふふっ、こうやってキミとお話しするのは初めてだね」
「…………」
「もう、どうしてそんな怖い顔するかなあ」

 すねた声を出す少女。

「……お前は誰だ?」
「ボクはボクだよ」
「そんな答えじゃ分かるか!」
「そんなこと言ったって、それしか答えられないんだもん」
「意味がわからん……」
「うん、ボクも分からない」
「……もういい、どうやって俺の部屋に入った?」
「キミって質問ばっかりだね」
「お前が訳分からないから聞いてるんだ!」
「怒鳴らないでよ。今の質問に答えるけど、ボクはずっとキミのそばにいたよ」
「……は?」

 こいつは何を言っている? ずっと俺のそばにいただって?

「お前は俺の守護霊か何かか?」
「うーん、似たようなものかな?」
「なんだそりゃ……」
「ま、そんなことはどうでもいいや。それより、ボクはとっても嬉しいんだ。こうやってずっとボクが呼んでたのに、キミってぜんぜん気づいてくれなかったんだもん」
「……なんだって?」
「言ったよね? ボクはずっとキミのそばにいたって」

 微笑む彼女。……俺にはその無邪気な微笑が、なんとなく怖く感じた。

「……で、お前は何をしに来た?」
「うーんと……忘れちゃった」

 てへ、と舌を出して、少女は自分の頭を軽く叩く。……こうしてると、ほんとに無邪気な少女なのだが、俺にはその得体の知れない雰囲気が怖い。

「でも、ひとつだけ伝言があるんだ」
「伝言……?」
「うん、もうすぐキミの身に災いが起こる」

 さらりと
――とんでもないことをいった少女。その微笑みは変わらない。

「でも大丈夫、それと同時にキミ自身にも“力”が目覚める。……そしてそれは災いに対して、唯一抗える“力”。もっとも、その災いを跳ね除けるか、災いに飲まれるかはキミ次第だけど」

 “力”に目覚める……? 俺に何の力があると言うのか、それが何を指すのか、俺の知っている知識では判断することさえ出来ない。

「もし、災いを跳ね除けられたら……ボクたち、また会えるかもしれないね」
「……俺は会いたくない」
「ひどいよ〜」

 ぷうっ、と頬を膨らませる少女。それだけ見ると、本当に可愛らしい女の子。

「もういいや、今日は帰る!」

 ふんっ、とすねたのか、少女はドアまで大またで歩いていく。ノブに手をかけ、一度止まると、

「またね、祐一君」

 そう言い残し、少女は出て行った。
 何だったんだ、一体……そう思いながらも、俺の体は、まどろみを求め、俺を再び夢の中へと誘った……



「ふぁ〜……」
「おはよう、相沢」
「おう、おはよう……」

 朝食の席で、最初に俺を出迎えてくれたのは、斉藤だった。

「早起きだな、お前は」
「なんだかんだで朝は強いほうだし、秋子さんの手伝いもあるからな」
「なるほど……」
「昨日のHRでも言ってたが、今日は、俺たち2年は自由登校だが、お前どうする?」
「え……ああ、今日は1年の入学式か」
「貴明は強制だが、俺たちは特に関係ない……と言いたいところだが、今日は澪ちゃんの晴れ舞台だからな」
「そうなのか?」
「ああ、今年俺らの後輩になる」
「そうか……じゃあ、初めて出来た後輩のために、行ってやるべきだろうな」

 言うと思ったぜ、と斉藤は笑った。

「……ところで、折原の奴はどうした?」
「さあ、あいつは寝てるんじゃないか? あいつ、普段は朝に弱いから、長森さんに毎朝起こされてるんだし」
「そうか、いつも長森さんが大変な思いするのも可哀そうだし、今日ぐらいは俺が起こしてやるか……」

 無論建前である。本音は昨日の復讐だ。あのジャムを食ったあと、危うく本気で三途の川が見えかけたんだぞ!! 今朝もなんか変な夢見るし……妙にリアルな夢だったけど。

「……まあ、ほどほどにしとけよ」

 俺の目的を察したか、斉藤は軽く釘を刺した。

「……合鍵だ、どうしても必要なときには、いつもそこに入ってる」
「すまんな、斉藤」

 折原の部屋の合鍵を握り締め、俺は折原の部屋を目指す。

「ここだな……」

 プレートには「折原」と書かれたドア。その部屋の前に立つ俺。鍵を開け、静かにドアを開ける。締め切ったカーテンをそっと開けると、まぶしい朝日が差し込む。部屋を見渡せば、折原のベッドが盛り上がっている。くっくっく、まずは復讐の第一歩……

「おりゃあああああああああ!」

がばあっ

 思いっきり布団を引っぺがす。が、そこに折原の姿はなく、ぐるぐる巻きにされた人間の身長大の布団。ご丁寧に、「ひっかかったな、長森 by折原浩平」と書かれた手紙。……こみ上げる怒りに震える俺の手。手紙をぐしゃりと握りつぶし、元凶の折原を探す。まずは聞き耳を立てる。朝の静寂の中、聞こえてくるのは鳥のさえずり、時計の針の音。そして……寝息。聞こえた寝息の元を探ってみる。聞こえるのは全部屋共通に備え付けられたクローゼットの中。静かにクローゼットを開けると、そこにはバカ面をさらして夢を見ている折原の姿。……ターゲット、発見。

「目覚めの、ローキィィィィィィィィィィィィィィィィック!!」

ズドンッ

「へぶしっ」

 折原の腹に、俺の全体重を乗せたローキックが突き刺さった。

「さらにもうひとつ! 覚醒のアッパーカァァァァァァァット!!」

ゴキッ

「あべしっ」

 すかさず俺のアッパーが折原のあごを捕らえ、折原の体を宙に浮かせる。そして俺は、その隙を逃さず
――

「そして連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打ぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

ドドドドドドドドドドドドドドド……

「うごごごごごごごごごごごごっ」

 最後の一撃が折原の腹にめり込む。これぞ秘技、相沢流30連エアリアルコンボ。この一撃を食らって無事でいる奴はそうそういない。

どさっ

 落下する折原は、受身も取れず、地に伏した。それきり、ぴくりとも起きてこない。ふっ……復讐、完了。

「浩平〜、朝だよ〜……って、あ、相沢君!? 浩平!?」
「おはよう長森さん、今日は訳あって、俺が起こしに行ってやったんだ」
「そ、そうなの? でも……」
「ああ、ごめん。ちょっと手荒にやりすぎて、また伸びちまった」

 あくまでさわやかに対応する俺。不自然なまでにさわやかな俺に、すっかり戸惑っている長森さん。

「えっと……昨日はごめんなさい」
「ん〜、何のことだ?」
「あの、ジャムのこと、怒ってるんだよね……? 皆黙って見てただけだったから……」
「……まあ、そのことについては言いたいことがないわけじゃないが、とりあえず、その報復はすんだから、もういいさ」
「うん、わたし達も、何度かあのジャムは口にしたんだけど、あれだけはどうにも駄目なんだよ……」
「……ああ、一口食えば、確実にトラウマものだったな」

 今なら皆のあの反応もよく分かる。皆は、一度はあのジャムを食べているからこそ、あれの恐ろしさを思い知ってるわけだったのか……

「ま、その話は終わりにしよう。今日は入学式だけど、長森さんは出るのか?」
「うん、澪ちゃんの晴れ舞台は見に行かないといけないもん」
「そっか、じゃあ、会場でまた会おうか」
「うん、いいよ」



「うう……全身が痛い……」
「ほら、急いでよ、浩平」
「そうだぞ、折原」
「俺をボコにしたお前が言うな!!」
「うー、置いてくなんて酷いよ、祐一〜」
「お前が言ったんだぞ、100メートルを7秒台で走れば間に合うんだろ?」
「わたし、そんなに早くないよ〜」

 俺たち四人はまた、遅刻すれすれの時間に走っている。とはいえ、今日は自主出席なので、そんなに急ぐ必要はないのだが、寮の皆(繭は除く)全員が、澪の入学式を見に行っているのだ。ところが、なかなか目を覚まさない名雪を必死で起こしていたら、また、昨日と同じくらいの時間になってしまったのだ。

「式は何時からだ!?」
「えーと、確か式は9時からだけど、入学式に参加する生徒は、講堂に8時40分までに現地で受付を済ませないと駄目なんだって」
「結局またぎりぎりかよ!?」
「だから急ごう、名雪、相沢君!」
「はあ……悪いな、長森さん」
「大丈夫だよ、浩平で慣れてるもん」



 滑り込みセーフで受付を済ませた俺たちは、空いた席を探して座る。どうやら空いてる席は2つ筒のようで、折原と長森さん、俺と名雪のペアで分かれる事にした。後で落ち合うことを約束しつつ、席に座る。ちょうど名雪の隣には、昨日知り合った香里の姿があった。

「香里〜」
「おはよう、名雪、相沢君」
「おう、おはよう、香里も入学式を見に来たのか?」
「ええ、妹が今年入学するの」
「栞ちゃんっていうんだよ。すっごく可愛い子なんだ」
「へえ、見てみたいな」
「相沢君たちはどうして入学式に来てるの?」
「私たちは澪ちゃんの入学式を見に来たんだよ」
「ああ、寮の後輩の子……だったわね。栞と同じクラスになれれば、いいお友達になれそうね」
「うんっ」
「……おっと、始まるみたいだ」

 入学式開会の言葉から、入学生の入場が始まる。俺たちは吹き抜けの席から、その様子を見守る。遠くてちょっと見づらいが、その中で、どうにか澪の姿を捉えることは出来た。

「あっ、祐一、澪ちゃんだよ! 澪ちゃ〜ん、痛っ」

ごんっ

「恥ずかしい真似はやめろ!」
「う〜、ぶつなんて酷いよ〜」
「今のはぶたれてもしょうがないと思うわよ、名雪」
「香里まで〜」

 全入学生徒が着席し、クラス紹介のプログラムに移る。
「……続きまして、1-C、天野美汐、伊地知猛、上田仁…………上月澪」

 立ち上がる澪。こうして見ると、澪って、他の同学年と比較すると小さいな」

「祐一、それは酷いと思うよ」
「は? 何がって……まさか」
「口に出てたわよ」
「ぐっ……」
「…………美坂栞…………以上、1-C」
「あっ、澪ちゃんと栞ちゃん、同じクラスみたいだよ」
「そうね、仲良くやれるといいんだけど」
「大丈夫だろ、澪はいい子だから、お前の妹とも仲良くやれるさ」
「ええ、そうね」
「……祐一、こっそり出ちゃおうか」
「いいのか?」
「大丈夫だよ、澪ちゃんと栞ちゃんも見たし、あとでまた会いに行けばいいよ」
「そうだな……香里はどうする?」
「あたしは最後までいるわ。親は来てないし、姉のあたしが最後まで見てあげないと」
「そっか、じゃ、またあとでね」
「ええ、またね」

 香里に挨拶を告げ、俺たちは講堂を後にした。



「で、名雪。入学式を抜け出したのはいいが、どこへ行くつもりなんだ?」
「えっと……考えてなかったよ」
「おい……」

 なんとも名雪らしいといえばらしいが……名雪は名雪で、必死でどうするかを考えているようだ。……まあ、つきあってやるか。

「うーんと、街は昨日案内したし、学校は……」
「……そういえば、学校のほうはまだ分からない施設が結構あったな。名雪、案内してくれるか?」
「え……あ、うん、いいよっ」



「あれが特別校舎。化学とか物理の実験をするときには、あっちの教室を使うんだよ」
「ほほう」
「あっちにあるのが運動部の部室。文化部は別にあるからそこも案内するよ」
「おう」
「祐一、部活に入るところとか、決めてる?」
「いや、特に決めてない」
「そっか……じゃあ、陸上部なんてどうかな? 祐一、結構早いから、頑張ればかなりいい線まで行くと思うよ?」
「今はいい。……考えてやらんこともないが」

 名雪に校内を案内してもらうことになった俺。横で鼻歌を歌いながら、嬉しそうに名雪は歩いている。しかし、その歌、どっかで聴いたことが……

「……名雪、その歌、もしかして『キミの記憶』か?」
「うん、ちょっとマイナーだけど、わたし、すごく好きな歌なんだ……でも、よく分かったね、祐一」
「ああ、俺のプレーヤーにも入ってる。割と気に入ってるんでしょっちゅうリピートして聞いてるな」
「わ、びっくりだよ」
「まさか、名雪が知ってるとはな、世間は狭いもんだ」
「そうだね、えへへ……」
「やけに嬉しそうだな」
「だって、祐一とお揃いだから……」
「う……」

 ちょっと恥ずかしくなってうめき声を上げる俺。嬉しくないわけじゃない、むしろ嬉しいが、こうやって面と向かっていわれると、ちょっと、な……

「と、ところで、あの建物は何だ?」
「あ、あれはオープンカフェテラスだよ。お昼ごはんは、たいてい、皆あそこを利用するんだよ」
「そうか」
「わたしはAランチがお勧めかな。デザートのイチゴムースがとってもおいしいんだよ」

 イチゴの話が出たとたん、妙にトリップしている名雪。……そういえば、昔からイチゴのことになると、こんな幸せそうと言うか、ちょっといっちまった状態になってたものだったな、こいつは。

「そうだ、祐一、お昼はあそこで一緒に食べよ?」
「ん? ああ、いいぞ。ついでに香里たちも誘うか?」
「うん、そうだね……あ、そろそろ式も終わって、新入生が帰る頃だよ」
「じゃあ、校門で澪たちを待ってるか」
「うん」



「名雪、遅いわよ」
「ごめんね、香里〜」

 香里の叱咤が名雪に飛ぶ。

「すまん、二人でちょっと迷った」
「はあ……方向音痴の相沢君と、天然の名雪が一緒じゃ、そうなっても仕方ないわね」
「香里、酷いこと言ってない?」
「そんなことないわよ」

 そんなやり取りをしているところに、折原と長森さんがやってきた。

「よう、美坂姉」
「あのね、折原君、その呼び方はやめてって、前から言ってるでしょ?」
「はっはっは、俺から言わせれば、お前はいつまでたっても美坂姉だ……ぐほっ」

 香里のボディーブローが、綺麗に折原の鳩尾に決まった。うーむ、今のはなかなか見事だな。知り合いのボクシング部の先輩も、絶賛するかもしれん。

「こんにちは、香里。今年は別々のクラスで残念だよ」
「こんにちは、瑞佳。わたしも同じよ、それと今年もご愁傷様」
「はあ、ほんと浩平には、誰かいい人が現れてくれないと、心配だよ」
「なら、貴方がなればいいじゃない」
「わたしじゃ無理だよ〜」
「ふふ、そうかしら?」

 そう言って、意味ありげに微笑む香里。

「そ、そんなもんだよ。ほんとだもん!!」
「はいはい、わかったわよ」
「お姉ちゃ〜ん!!」
「あ、香里、栞ちゃんが来たよ! 栞ちゃーん!」

 名雪が手を振って、香里の元に走ってきた女の子を迎える。やや線の細い、ショートボブの女の子。この子が香里の妹、栞なのだろう。が、ぶっちゃけて言うなら、あんまり似てない。特にその……身体つきとか。その隣には、澪の姿もあった。仲良くなったのか、心なし、嬉しそうだ。

「お久しぶりです、名雪さん」
「うん、久しぶりだね、栞ちゃん、元気だった?」
「はい、おかげさまで、元気です!」

 ガッツポーズをして、元気さをアピールする栞。ポーズをといて、名雪の横に立っていた俺をチラッと見る。……ああ、そういえば俺と栞は初対面だったな。

「あの、そちらの男の人は……?」
「ああ、あっちは折原浩平。見てのとおりのバカだ」
「いえ、そっちじゃなくて、貴方の方……」
「分かってるよ、単なる冗談だ。相沢祐一、一応、名雪の従兄に当たる」
「え……? ああ、名雪さんやお姉ちゃんから聞いてます! 面白い人だって! くすっ、お二人の言ったとおりの人ですね」
「……昨日から数えて通算何度目の、その評価だろうな」
「ほめてるんですよ。……ああ、すみません。わたしは美坂栞。美坂香里の妹です。栞と呼んでくださって結構ですから」
「それじゃ、俺のことは祐一と呼んでくれていいぞ。むしろ呼んでくれ」
「はい、祐一さん」
「栞、来週から名雪の寮に引っ越すんだから、迷惑かけちゃ、駄目だからね? 名雪も相沢君も、一応寮の先輩になるんだから」
「むー、わかってますよ、わたしだって子供じゃないんです!」
「あたしから言わせれば、まだまだ子供よ、貴方は」
「そんなこと言うお姉ちゃん、嫌いです!」

 ぷいっ、とそっぽを向く栞。確かにまだ子供のようなしぐさが残っていて、思わず笑ってしまう。

「祐一、笑うのは失礼だよ」
「あ、悪い悪い。仲のいい姉妹だと思ってさ」
「ああ、そうだな」

 いつの間に復活していた折原が割り込んでくる。

「姉妹の仲がいいことはいいことだと思うぞ。世の中には、仲良くしたくても、もう出来ない兄弟というのもいるんだからな」
「折原……?」

 それは折原がはじめて見せる、とても悲しい目。取り戻すことが出来ないものを見ているかのような、そんな瞳。……初めて知ったが、こいつもこんな表情をするんだな……

「……何だ、相沢、人の顔をじろじろ見て」
「あ……悪い」
「何だお前、実はそういう趣味か? 悪いな、俺はヘテロだからな」
「誰がだ!!」

ごすっ

「ぎゃっ」

 俺のかかと落しが、見事に折原の脳天に落ちた。やはり折原は折原だったか……

「祐一、そんな趣味なんだ……」
「ちょっと引くわね」
『そういう趣味の人だったとは知らなかったの』
「お前ら何真に受けてる!?」

 悲しそうに言う名雪、俺からちょっと距離を置く香里、とんでもないことをスケッチブックに書き込む澪に、俺はあらん限りのつっこみを入れる。

「冗談に決まってるでしょ?」
『冗談なの』
「え、冗談だったの?」
「な〜ゆ〜き〜」

 俺は拳骨を名雪のこめかみに押し当て、ぐりぐりと手首をねじる。いわゆる梅干である。

「祐一、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!」
「お前は人の冗談真に受けやがって〜! 危うく俺は人間の尊厳を奪われるところだったぞ!」
「ごめんなさい、ごめんなさい、だから許して〜」

 涙目になって訴える名雪。お仕置きはこのぐらいでいいだろうと思い、拳を離した。涙が浮かんだ目で非難がましい目を、俺に向ける。

「酷いよ、祐一〜」
「お前が悪い」
「う〜……」
「あの……」

 申し訳なさそうな声で栞がつぶやいた。っと、いかんな、彼女のことをすっかりないがしろにしていた。

「あ、悪い。無視しちまったかな?」
「いえ、いいんです。でも、名雪さんとすごく仲がよろしいんですね?」
「まあ、こいつと俺は従兄妹だからな。付き合いもそれなりに長いし」
「そうなんですか、うらやましいです。わたし、ずっとお兄ちゃんがほしいな、とか思ったことがありましたから」
「栞〜、お姉ちゃんのあたしじゃ不満かしら?」

 栞の発言に、香里がちょっと怖い目でにらみつける。その視線に萎縮して、しどろもどろになる栞。

「そ、そういう意味じゃないよ、お姉ちゃん……」
「冗談よ」
「むうー、そんなことする人嫌いです!」

 すねる栞。そっぽを向いて、頬を膨らます。さすがにやりすぎたか、と香里がフォローを入れている。
 その様子を見ていると、誰かが俺の袖を引っ張る感触があった。見れば、澪が、何事かをスケッチブックで書いていた。俺は視線を落として、それを読む。

『とっても仲良しなの』
「そうだな、澪。ところで、栞と仲良くやれそうか?」
『今日、初めて同じクラスになって、とっても仲良くなれたの』
「……そっか、じゃあ、栞が寮に入っても、仲良くしてやれよ」
『もちろんなの』

 にっこりと笑う澪。周りを見れば、合流した斉藤たちが、手を振っている。ようやく機嫌が直った栞と香里、名雪は、三人でたわいない会話をしていた。折原も長森さんと何事か話をしている。それはどこにでもある普通の光景。でも、とても楽しくて、幸せな光景。俺はそんな時間を、当たり前のように満喫していた。
















 だから、俺は昨日の夢のことなんて忘れていたし、所詮夢の話だと思っていた。
















 だが、あの夢の中の予言は、思わぬ形で現実のものとなる……
















 始業式から5日目、初めての授業もつつがなく終了し、部屋に戻った俺は、軽く予習をして、ゆっくり眠っていた。
 そのまどろみの時間は、突然聞いたこともないブザー音が寮内に響き渡り、一瞬にして破られた。

「お、おい! 何だ、火事か!?」

 目を覚まし、何が起こったのかわからず、軽いパニック状態に陥る俺。部屋をきょろきょろと見渡す。備え付けられている窓から覗くのは、ぎらぎらと異様に輝く満月。そして
――入寮するときに体験した、あの緑色の夜空。

「な、なんだ……? またこの空……?」

どんどんどんどんどんどん!!

「祐一、祐一!! 起きて!!」

 これまで聞いた事がない、名雪の必死の声。俺がドアを開けると、名雪は大慌てで俺の部屋に飛び込み、俺の手を掴み、俺を部屋から引きずり出す。

「お、おい、名雪! これは一体どういうことだ!?」
「話は後だよ! 急いでここから離れるんだよ!」
「名雪!!」
「急いで!」

 その表情から、俺はこれが冗談などではなく、今が決死の状況であることに気づき、それ以上は何も言わず、おとなしく名雪についていく。
 名雪は階段を下り、階段裏の寮の裏口まで駆けていく。

「ここから逃げるよ!!」

 名雪がドアに手をかけたその時、

どんっ!!

「きゃっ」

 凄まじい衝撃と音が、ドア越しから伝わり、名雪は驚いて腰を地面に落とした。

「うー……ここは駄目、正門は川澄先輩たちが、必死で守ってるから……」

 必死に頭を回転させ、どうすればいいかを考える名雪。かといって、俺には事情がよく分からず、悔しいが、口を挟むことも出来ない。名雪はしばらく考えた後、再び俺の手を取り、走り出す。

「上へ逃げるよ!!」
「お、おう!」

 来た道を引き返し、階段を駆け上がる俺たち。と、突然
――

ずどんっ


「うわあっ」
「きゃあああっ」

 凄まじい衝撃が寮全体を襲った。驚いた拍子に、名雪が足を踏み外し、俺めがけて落下する。自分も落ちないよう、足を踏ん張り、名雪を抱きとめる。

「あ、ありがと、祐一……」
「気にするな、それより、避難するんだろ?」
「あ、うん、こっちだよ!!」

 俺の手を取り、再び階段を駆け上がる俺たち。

「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ……」

 名雪の息遣いが荒くなっている。俺自身も体が重い。妙に疲れる……階段を一段一段上っていく毎に、ごっそり体力がそぎ落とされていく感覚。こんなに疲れたことはなかったのに……

「もうすぐ屋上が見えるから……祐一も、頑張って」
「分かった……」

 俺の手を引っ張りながら、自分も疲れているだろうに、俺を励ます名雪。俺はぐっと足を踏みしめ、階段を駆けていった。やがて、めったに使われていないのか、使わなくなった家具が置かれ、殆ど物置同然と化した屋上前のドア周り。名雪はドアを開けて、屋上へ出る。俺もその後に続く。俺が屋上へ出たのを確認すると、名雪は鍵をかけ、その場にへたり込む。……空は相変わらずの緑色。

「ここまで来れば……多分大丈夫だよ」
「なあ、名雪、そろそろ説明してくれ。何が大丈夫なんだ? それからこの状況は何なんだ? それから俺たちは、何から逃げてたんだ?」
「それは……」

 言いかけたその時……

ぞくり

 何かがいる。俺たちの背後に。それは名雪も気がついたらしく、蒼い顔で俺の背中に視線を向けている。俺は怖いと思いつつも、後ろを振り返る。



 屋上の縁に、一本の真っ黒な手がかかる。続けて二本目。三本目。縁を掴む無数の黒い手。手。手。手。もうこの時点で、普通の生き物のはずがない。
 そして
――手の次に現れたのは、無表情な仮面。仮面のふちを、やはり黒い手が掴んでいる。仮面の目にあたる部分が俺たちを捉える。手はのっそりと屋上へと這い上がる。そして、その全身像が明らかになる。それはやはり、ねじくれた無数の腕の集合体だった。その手のうちの一本が、仮面を握りしめている。そして、余った手の何本かには……いつの間にか握られていた細身の剣。それは、明らかに俺たちを害するために握られたとしか思えなかった。
 それが俺たちに近づく。近づいてくる。剣の標的となるのは……俺と、名雪。

「名雪……あれはなんなんだ……」
「あれが……わたしたちが逃げてたもの……わたしたちの敵、『シャドウ』だよ!」

 あまりと言えばあまりの急すぎる展開についていけず、呆然とするしかない俺。対して、名雪は怯えが混じっているものの、慣れたように、今の状況を冷静に見ている。
 しばし後、名雪はいつの間に持ってたのか、懐から、銃を取り出し、そして、それを何を考えているのか、銃口を自分に押し当てた!! まさか、自殺する気か!?

「よせ、名雪!!」
「大丈夫だよ、祐一、離れて!!」
「何を言って……!?」

 俺は言いかけて、名雪の目を見る。それは、恐怖と混じって、何かを決意するような、強い意志を秘めた瞳。決して、死を受け入れた目ではなかった。

「はあ、はあ……」

 名雪の呼吸が荒くなる。冷や汗で全身が塗れている。汗の一滴がぽたりと地に落ちた。それを引き金に、名雪は銃のトリガーを、引いた。

「フレイア!!」

バキン……

 銃声と、何かが壊れたようなそんな音が響く。そして、名雪からしぶいたのは熱い血潮ではなく無機質なガラスのようなもの。それが名雪の周囲を舞い、奇怪な影のようなものを形作る。ぱっと見、それは女性のフォルムだが、顔は作り物のように無機質。首からは大きな首飾りがぶら下げられている。それが名雪に付き従うかのようにそばに立ち、化け物の前に立ちはだかる。

「手を貸して!!」

 名雪が叫ぶと、その影は手のひらを化け物に向ける。その瞬間、猛烈な冷気が化け物を中心に吹き荒れ、空気が凍りつく。これには化け物も堪えたようで、その動きがひるむ。冷気が消えた後、何事もなかったように名雪の呼び出した影は姿を消した。

「もう一度……」

 銃を再び押し当て、さっきの影を召喚しようとした名雪だが、化け物はそれを許さなかった。化け物は剣をこすり合わせると、そこから、凄まじい炎が噴き出し、名雪を包む。

「きゃあああっ!!」

 よほどその炎が強烈だったのか、名雪は吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。そういう意味では名雪は運がよかった。吹き飛ばされる方角があと少しずれていたら、そのまま下へダイブしていたのだから。だが、名雪の決してダメージは軽くなかったのか、火傷と、全身を激しく打ちつけた衝撃で、そのまま倒れこんでしまう。そして取り残された……俺。

びちゃり……

 化け物は倒れた名雪を無視し、俺に迫る。後ろに一歩後ずさりする俺。だが、じりじりと距離は詰められていく。その様子が酷くスローモーションに感じる。
 こつん、と。足元に固いものが当たった。それは、名雪が持っていた銃。それはよく見ればオートマチックの拳銃だが、スライドも、マガジンも固定されており、どう見ても、弾が発射される仕様には見えないモデルガンみたいなもの。だが、それを見たとたん、俺は夢の中に出てきた少女の予言を思い出す。

――もうすぐキミの身に災いが起こる

――それと同時にキミ自身にも“力”が目覚める。……そしてそれは災いに対して、唯一抗える“力”

 名雪が呼び出したあの影。そして、それを呼び出すために使ったこのモデルガンみたいなもの。名雪のあの行動。そして、昨日の少女が残した予言
――それらがパズルのピースのように絡み合う。
 ……気がつくと、俺は足元の銃を拾い、それを迷いもなく自分のこめかみに押し当てていた。そうしている間にも、化け物は俺に近づいてくる。自分の心臓の鼓動が高鳴る。冷たい汗が噴き出す。トリガーにかけた指が震える。これから自分に起こるであろうことが……怖い。

――――大丈夫

 いるはずのないあの少女の声が聞こえた気がした。その声に励まされる形で、俺の震えは……消えた。きっ、と視線を化け物に向け、トリガーを
――引く。



 頭に衝撃が突き抜け、俺の中から、あの蒼い欠片が飛び散った。自分の中から、何かが飛び出していくような、そんな感覚。そして飛び散った破片が、俺の体を中心に回り、集まって、ある人影を作り出していく。

「我は汝……」

 それはずっと俺の中にいたもの。

「汝は我……」

 そして、俺が知らないもうひとつの自分。

「我は汝の心の海より出でしもの……」

 今なら分かる。こいつは……俺自身。

「盲目の咎人、ヘズなり……」

 それは、厳かな声でそう名乗った。俺はその声に、かすかな笑みを浮かべたのだった……


Shadow Moonより

祐一君覚醒! やはり一般人だったのにピンチに陥り、ギリギリで覚醒は王道ですね(w
それはさておき、部屋に隠しカメラはまずいでしょう(汗)。
佐祐理さん達に色々、精の青い少年の秘密が赤裸々に観察されてしまったかもしれません(爆)。
さてさて、いよいよ敵であるシャドウの登場。 影時間という特定の時間に現れるようですが、いったい何者なのか?
これからの祐一君の活躍がとても楽しみです。


会澤祐一様への感想は掲示板へ。

戻る  掲示板