携帯のアラームが鳴る。目覚まし代わりにセットしておいた時刻は午前6時。早い段階である程度荷物をばらしておく必要があるからだ。眠った時間が時間なだけに結構だるく感じる。……あまり質のいい睡眠は取れてなかったようだ。……それに、昨日のあの、緑色の夜のことが、また思い出される。忘れようとしても、忘れられないあの体験。……馬鹿馬鹿しい。あれは単なる偶然なんだ。そう思いこみ、頭を切り替えて、重いまぶたを開け、視界に最初に飛び込んできたのは……
「うおっ、こいつ、目ぇ覚ましやがった」
……知らない男だった。
P-KANON ACT-1
「……おい」
「何だ?」
「お前は誰だ?」
「ん? 俺か? 俺の名は……」
言葉を区切ると、俺から距離を置き、その男はヘンテコなポーズを取って……
「俺の名は折原浩平。美男子星からやってきた美男子星の王子様だ!!」
びしいっ、と俺を指差す折原とかいう男。まず、今ので分かった。こいつは間違いなくバカだ。
「二つ質問させろ、折原」
「おう、いいぞ、なんなら俺の3サイズもOKだ」
「そんな気色の悪いものは聞きたくねえ。まず、どうやって俺の部屋に入ってきた?」
「フッ、こんな鍵、俺のピッキング技術に掛かれば赤子の手をひねるようなものさ」
「なるほど、では次の質問だ。俺の部屋に入って何をしようとした?」
「いや、それはお前の顔に新人歓迎の落書きを一発……」
「死ねい!!」
ドゴンッ
「げはあっ」
俺の渾身の右ストレートが折原の顔面にめり込んだ。……ったく、朝から無駄に体力を使わせやがって。折原は壁に激突し、そのまま伸びている。結構マジでぶっ飛ばしたからな。しばらくは意識が戻らないかも知れん。
「すみませーん、そっちでなんだかすごい音がしたんですけど大丈夫ですかー!?」
どんどんどん
ありゃりゃ、これはしまったな、他の人に迷惑かけちまったかもしれない。声からすると女性かな?とても心配そうな声がドア越しから聞こえてくる。
「ああ、悪かった。なんともないから大丈夫だ」
「そ、そうですか、よかった……あ、あとそれから……」
「なんだい?」
「浩平を知りませんか? 部屋に起こしに行ったら、いなかったから……」
「……君が言う浩平とは、折原浩平とか言うやつか?」
「そ、そうです! あの、どうして知ってるんですか?」
「……今開けるから、とりあえず回収していってくれないか?」
部屋のドアを開けると、そこには俺と同い年くらいの可愛い女の子。制服に着替えているところを見ると、彼女もここの寮生なのだろう。その子はしばしドアの前でおろおろしていたが、伸びている折原を確認すると、一目散に駆け寄り、
「浩平、浩平、起きなさいよー!?」
がくがくと、折原の肩を揺さぶる。
「あー、すまん。俺がぶっ飛ばしてこいつ、ちょっと伸びちまったみたいでさ」
「え? また浩平が何かしたんですか?」
また? 今、またとか言わなかったか? こいつ、まさか俺以外の誰かにも同じようなことをしているのではあるまいな?
「えっと、ごめんなさい。浩平が迷惑かけたみたいで」
「いや、君が謝る必要がないと思うよ。それに俺だってキミの連れをこうやってぶん殴っちまったんだからおあいこだって」
「……くすっ、いい人なんですね」
「そうか?」
「あ、自己紹介がまだだった。わたし、長森瑞佳。2年生です」
「2年なら俺と同い年じゃないか。敬語は要らないって」
「そ、そうかな?」
「ああ、そっちのほうが自然でいい。俺は相沢祐一だ。昨日の夜にここに着いたばかりだ」
「あっ、貴方が秋子さんが言ってた転入生なんだ。よろしくね、相沢君」
「ああ、よろしく、長森さん」
長森さんのお辞儀に、丁寧に返す俺。
「何か、長森さんの言い方だと、たまに学生以外の人がこの寮に泊まったりするのか?」
「……うん、ここをビジネスホテルか何かと勘違いした人たちがたまに来るんだけど……」
確かに俺もそう思った。……ん?
「……けど?」
「秋子さんが、よく『了承』って、そのまま一晩泊めちゃうことがしょっちゅうあるから……」
それ、寮として機能してるのか? 本当に。
「そういえば、荷物、まだばらしてないんだよね。手伝ってもいいかな?」
「……いいのか?」
「うん、浩平が迷惑かけたんだから、当然だよ」
「……じゃあ、お言葉に甘えようかな。そこの小物からお願いしようか」
「了解だよ」
長森さんはてきぱきと荷物を開けて、中身を取り出していく。まあ、小物ならそんなに見られても困るような代物は持ってきてないから平気だけどな。さすがに下着とかその辺のは俺が後で開けるけど。やっぱり一人よりも二人で仕事をしたほうが効率がいい。
「小物系は全部開けたよ。どこに置けばいいかな?」
「あ、それはいい。俺がやるから」
「……そっか。わかったよ」
ちょっと残念そうな長森さん。本当に世話好きな人だな。折原はこんなにいい子を困らせているのかと思うと、ちょっと腹立たしい。そんなことを考えていると、長森さんが、深刻そうな顔で俺をじっと見ていた。
「相沢君?」
「どうした、長森さん?」
「その……浩平のこと、嫌わないでほしいんだよ」
「……どうしてそう思った?」
「その、初対面でいきなりあんなことされたら、誰だって怒ると思うけど、浩平も悪気があってやってる訳じゃないから、許してほしいんだよ」
「…………」
「それに、わたし、浩平のいいところ、いっぱい知ってるから、相沢君にも浩平のいいところ、知ってほしいんだよ」
「……大丈夫だよ、長森さん。そりゃいきなりあんなことされて思わずぶっ飛ばしちまったけど、俺はこういうバカは嫌いじゃない。……呆れはするけど」
「相沢君……」
「ま、気が向いたら、友達ぐらいにはなってやるよ。それでいいか?」
「うんっ、いいよっ」
嬉しそうに長森さんは微笑んだ。……やばい、結構可愛いかも。
一通り小物を出し終え、折原に活を入れて復活させたら、時間はもう7時5分前になっていた。
「やばいぞ、早くしないと秋子さんの朝飯がなくなる!」
「わ、わ、本当だよ。急ごう、浩平、相沢君!」
「お、おう!」
急いで、1階のキッチンに駆けていく。寮にしてはやや広めなキッチンには、もう何人かがご飯を並べて待っていた。その中には、昨日あった少女、舞の姿もあった。
「おはよう、舞」
「……おはよう」
「何、相沢、お前、もう川澄先輩と知り合いだったのか!?」
折原は驚いてこっちを見ている……って、あれ?
「川澄……先輩?」
コクン、とうなづく舞。
「……何で言わなかった?」
「……聞かれなかったから」
「えーと……」
先輩に向かってタメ口聞いてたのが分かって、どうしようかと思案している俺に、舞はそれを察したのか、
「……昨日と同じでいい」
「そ、そうか? じゃあ、そうさせてもらおうかな」
舞は小さくうなづき、用意された紅茶を口に含んだ……その表情は相変わらず読めない。
「ふえ〜、もう舞とは仲良しさんになってたんですね〜」
亜麻色の長い髪が綺麗な女の子が、補足してくれた。その柔和そうな笑い方は、どこか上品そうな雰囲気がある。
「えっと、昨日、入寮したときに、偶然会って、それからちょっと……」
昨日の剣のことはなるべくぼかして言う。さすがに舞が危ない人のように思われたらいたたまれない。
「あっ、貴方が転入生さんだったんですか! 見覚えのない方だとは思ってましたが……それにしても、舞が言ったとおりに面白い方なんですね〜」
「は? 舞がそんな風に言ったんですか?」
「はい、佐祐理と舞は親友ですから」
「そうなんですか?」
コクン、とうなづく舞を見て、佐祐理と言った女の子は「あはは〜」と、ほんわかするような笑いを浮かべた。
「あ、ごめんなさい。倉田佐祐理と言います。舞と同学年ですから、貴方の先輩という事になりますね。貴方のことは秋子さんから話は聞いてます。佐祐理のことは佐祐理と呼んでくださって結構ですので、祐一さん、と呼んでいいですか?」
「はい、それでお願いします、佐祐理さん」
「あはは〜、祐一さん、今日からよろしくお願いしますね〜」
「ええ、こちらこそ」
佐祐理さんと視線を合わせて笑いあう。その様子を見て、俺より体格のいい、浅黒い肌の男子が笑う。
「水瀬さんの従兄は面白い奴とは聞いてたが……いや、百聞は一見に如かずとはよく言うもんだな」
「……お前、それ誰から聞いた?」
「ん? 2月かそこいらかな、水瀬さんが寮やクラスの皆に吹聴して回ってたぞ。従兄が今度寮に来るって、聞かれもしないのにクラス中に言いふらしてたな」
……名雪の奴〜、軽々しく人のこと喋ってんじゃね〜!!
「まあ、そんなことはどうでもいいだろう。俺は斉藤英二。去年までは水瀬さんと同じクラスだったんだ。そういうわけだからお前に会うのを正直楽しみにしてたんだ。ま、今後ともよろしくな」
「あ、ああ、よろしくな、斉藤」
「本当は連れがもう一人いるんだが、そいつはちょっと早めに学校に行っちまった。まあ、始業式の準備やらなんやらで、他の連中より早く学校に行かなきゃならないんだと」
「そうなのか?」
「ああ、2年で生徒会長なんぞをやってる。あれで結構多忙なやつなんだ。ま、学校で面合わせるだろ。そん時に紹介してやる」
「わかった、楽しみにしてる」
斉藤との短い語らいが終わると、彼の横にいた小さな女の子が微笑みかける。手には大きなスケッチブックが収められていて、それにせっせと何かを書き始める。
『はじめましてなの』
スケッチブックにはそう書かれていた。
「おう、はじめまして」
挨拶を返すとぺこりと可愛いお辞儀をする。スケッチブックをめくって、また何かを書き始める。
『上月澪なの。よろしくなの』
「……悪い、読めない」
『こうづき みおなの』
「ああ、わかった。よろしくな、澪……でいいか?」
うんっ
首を何度も何度も振り、肯定をアピールする澪。そんな俺たちの様子を見て、折原が何かあきれるような目で俺を見る。
「お前、気づいてないのか?」
「何がだ?」
「そいつ、澪はな、口が利けないんだぞ」
「それが?」
「……俺は初対面の奴が、遠慮なしで澪と会話を成立させてる奴を見たことがない」
「いいんじゃないか? チャットみたいなもんだろ」
「……お前と言う奴が分からなくなってきた」
「あはは〜、佐祐理たちも、初めて上月さんとお話した時は戸惑ったものですよ」
「すごいね、相沢君。わたしも最初、澪ちゃんとお話した時はどうしていいか分からなかったもん」
「そうですか? まあ、いいんじゃないですか? こういう会話があっても」
「はえ〜、真顔でそういうことを言えるんですね、祐一さん」
「……本当に面白い奴だ」
周りの皆が、俺のことを驚嘆とあきれが入り混じったような目をして俺を見てる。……そんなに俺って変なのか?
『……では、続きまして、次のニュースです。昨今、社会現象とまで発展した謎の奇病、無気力症につきまして……』
つけっぱなしのテレビからは朝のニュースが流れていた。
「無気力症? ああ、最近話題になってるあれだな。原因不明、それまで元気だった奴が急に無気力になっちまうって奴。専門家じゃ、過度のストレスが原因だって言うけど……?」
……俺はその時、異様に食い入るように、そのニュースを真剣に見ている皆の様子に圧倒されて、口をつぐむしかなかった。
「おい、そんなにこのニュースが気になるのか、皆?」
「ん……? ああ、そういうわけじゃないんだがな……」
「うん、ちょっとね……」
歯切れが悪い答えを返す斉藤と長森さん。……どうしたというんだ?
「あらあら、祐一さん、もう皆さんと打ち解けているみたいですね」
「あ、秋子さん。おはようございます」
『おはようございます』
「はい、おはようございます」
いつもどおり、あの優しい笑みを浮かべ、俺たちに挨拶を返す秋子さん。本当に寮の皆に慕われてるんだな。……昨日のことも聞きたかったんだが、皆がいる前ではちょっと、な。
「祐一さん、寮の仲間は、もう何人かいらっしゃるんですが、不都合で全員そろうのは今日の夜になってしまうんです。そのときに祐一さんの歓迎会もしますので、今日はなるべく早めに帰ってきてくださいね」
「ああ、一人は斉藤から聞いてます。生徒会長なんだそうで」
「そうですね、まだ2年生なのに、立派なものですよ」
そうですね、と返す。
「あら、名雪はまた起きてきてませんね」
「……また?」
「うん、名雪、すっごく寝起きが悪いから……わたしも最初は浩平の次に起こしに行ったりしてたんだけど、それにも限界が来て……」
申し訳なさそうに言う長森さん。それを責める気はないが……なんとなく血のつながりがある分、こっちが申し訳なく思えてしまう。
「……秋子さん、俺が起こしに行ってもいいですか?」
「……いいんですか?」
「長森さんさえも見捨ててるんです。従兄の俺が起こしに行かないとさすがにまずいでしょう。それに、なるべく朝食は全員で食べたほうがいいですし」
「……そうですね。お願いしていいですか、祐一さん。祐一さんなら大丈夫でしょうし」
「は、何が……って、あ……」
自分の発言を思い出し、我に返って赤面してしまう。斉藤はコーヒーが喉につかえてむせ、横にいた折原は腹を抱えて笑っている。
「名雪の部屋は4階です。それから、これが名雪の合鍵になります。祐一さん、気をつけてくださいね」
「気をつける?」
「すぐにわかります」
初めて秋子さんが見せてくれたいたずらっ子っぽい笑み。首をかしげながらも俺は渡された合鍵を玩びつつ、4階へ上がった。
「名雪の部屋は……これか?」
プレートには確かに「水瀬」と書かれている。しかし、何に気をつけろというのか? とりあえず、ノブに手をかけ――
PIPIPIPIPIPIPIPIPIPIPIPIPIPIPIPIPIPIPIPIPIPIPIPIPIPIPIPIPI!
ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ!
ピリリピリリピリリピリリピリリピリリピリリピリリピリリピリリピリリピリリピリリ!
ジャーンジャーンジャーンジャーンジャーンジャーンジャーンジャーンジャーンジャーン!
「ぐわあああ、なんだこりゃ!?」
すさまじい轟音に耳を押さえ、部屋の中を見ると、そこには20個以上の目覚ましと、パジャマ姿で寝息を立てている長髪の女の子。本人に名前を聞いたわけではないが、おそらくこの子が、名雪。
「くー」
てゆーか、こんな轟音の中で、何で寝てられるんだ? 耳がおかしくならないのか!?
「おい、起きろ名雪!! おい!!」
「くー」
「起きろっての、朝飯だ!!」
「うにゅ〜」
「ああ、くそ!!」
とにかくこの拷問のような目覚ましをひとつづつ消していく。最後の目覚ましを消す頃には、もう体力は限界だった。
「起きろ、名雪!!」
名雪の肩をがくがくと揺さぶる。それに合わせて、名雪の首が面白いくらいに無抵抗にかっくんかっくん揺れる。
「うー、すごい地震だお〜」
「地震じゃねえ!! いい加減起きろ、このバカ!」
「うにゅー」
「うにゅうじゃねえ!!」
なお揺さぶり続ける。これが功を奏したのか、ようやく名雪の目がうっすらと開ける。
「…………どちら様ですか?」
「おいこら」
「……えーと、北川君?」
「誰だそいつは?」
「香里?」
「俺は男だ!」
ああ、こいつまだ寝ぼけてやがる。
「俺だ、祐一だよ!!」
「ゆう……いち」
「おう、祐一だぞ!」
「ほんとに祐一?」
「ああ、本当だ!」
ようやく頭が覚醒し始めたのか、名雪の目の焦点がはっきりしだし、俺の姿を捉える。しばし、名雪は呆然とした表情を見せ、次の瞬間にはぽろぽろと涙を流しだす。
「ほんとに……祐一なんだね?」
「何度も言わすな」
「うん……うん!!」
止まらない涙をぬぐいながら、名雪は途切れ途切れの言葉を続ける。
「ずっと……会いたかった。手紙も、年賀状も書いたのに……ぜんぜん返事をくれなかったから……すっごく心配だった……祐一、事故にあったんじゃないかって……だから……こうやってまた、祐一と……会えて……すごく嬉しいよ」
……昨日の俺の懸念は杞憂だった。名雪はずっと俺を待っていたのだ。いや、それどころか手紙をよこさない俺の身を案じてさえいてくれた。……俺はそのことがたまらなく申し訳なく思え、それ以上に嬉しくもあった。
「そう……だな」
「また……私と一緒に商店街歩いてくれる?」
「もちろんだ」
「一緒に学校行ってくれる?」
「ああ」
「約束……だよ」
「ああ、約束だ」
「うん……」
結構話し込んだんだが、時間は……うおっ、名雪の目覚ましが、もう7時40分になってる!
「悪い、名雪!! 秋子さんが朝飯用意してくれてるから、お前も早く着替えて来い!」
「あ……うん」
「じゃあ、下で待ってるからな!!」
「うん、またね」
「よっ、遅かったな」
下では折原の奴が待っていた。付き添いなのか、長森さんも一緒だ。
「他の皆はもう学校に行ったぞ。俺は面白そうだから残ってみた」
「残ってみた……ってどういう意味だ」
「言葉どおりだ」
「ごめんね、浩平がどうしても残るって言うから……」
ため息をつく長森さん。苦労してるんだな、この人。
「祐一さん、名雪はどうでした?」
「ええ、起きてきました。もうしばらくすると、降りてくると思い……」
「おはようございます〜」
俺が言い終わる前に制服に着替えた名雪が階段から下りてきた。さっきから泣いていたのか、目が真っ赤になっている。
「ほほう……」
「……何だ、その笑いは」
「いや、お前もなかなか女泣かせだな、と思っただけだ」
……よーし、こいつは後で10連コンボの刑だ。
「祐一さん、名雪、早く食べないと、ご飯が冷めちゃいますよ」
「あ、すみません」
「ごめんね、お母さん」
俺は冷めかけのご飯を口に入れる。冷めかけなのに、美味い。確かに長森さんたちが絶賛するだけはある。
「どうですか?」
「ええ、美味しいです」
「そうですか、お口にあった用で何よりです」
「相沢、そのうち秋子さん手作りのジャムも口にしてみるといい」
「ほう、美味いのか?」
ぴくり
その話題が出た瞬間、名雪と長森さんの顔が一瞬だけこわばったのだが、そのときは、俺は気づかなかった。
「ああ、この世のものとは思えん味だ」
「そうか、じゃあ、今度試してみるかな」
「ゆ、祐一!?」
「相沢君、本気!?」
「ん? どうした?」
「え、えーと、なんでもないよ」
「うんうん、ほんとになんでもないんだよ!? ほんとだよ! ほんとだもん!」
「おい、だよもん星人、パニくって連発してるぞ」
「だよもん星人じゃないもん! わたし『だよ』も『もん』もそんなに使ってもないもん!ね、相沢君!?」
「……ノーコメント」
ものすっごい連発してるんだが、どっちについても、長森さんが折原の餌食になるのは目に見えてるので、あえて中立の立場を取らせてもらう。ごめんよ、長森さん。
「皆さん、もう8時になるんですが、学校は大丈夫なんですか?」
『なにい!?』
見れば、確かに時計は8時を指す。荷物を片付けてるときに長森さんから聞いたのだが、学校は8時半には予鈴が鳴り、8時40分にはSHRが始まる。今日は始業式なので授業はないが、それでも登校はいつもどおりらしい。
「やばい、これは走らないと間に合わんぞ!!」
「わ、わ、急ごう、祐一!」
「おう! すいません、ご馳走様でした秋子さん」
「はい、遅刻しないように急いでくださいね」
「はい!」
こうして、俺のあわただしい学園生活がスタートした。
「うおおおおおおおおおおお!!」
「祐一、早いよ〜」
「お前はのんびりしすぎだ!」
「大丈夫だよ、100メートルを7秒で走れば間に合うよ」
「そんな世界新記録出せるか!」
ぽけぽけの名雪につっこみを入れつつ猛ダッシュする俺たち。
「折原、お前も走りなれてるのか? 息ひとつ切らしてないんだが」
「まあ、遅刻寸前の登校なんてしょっちゅうだからな」
「おい、それ自慢にならんぞ」
「俺には自慢できることだ」
その台詞を聞いて、あきれるように長森さんがため息をつく。これで彼女のため息を何度見たことだろう。
「あ、見えてきたよ!」
走りながら名雪が指差す方向にはおおよそ学校と呼ぶには大きすぎる建物。敷地だけでも、俺の前いた学校よりも大きい。名雪は俺が驚いているのを見て、なぜか嬉しそうな顔をする。
「あれがわたしたちの通う学校。私立常春学園高等部だよ」
「職員室はここだね」
転入生の俺は、まず担任の先生に挨拶をしないとならない。名雪に職員室を案内してもらい、今こうして職員室に立ってるわけだが……やっぱり職員室に入ると言うのはあまり慣れないな。
「じゃあ、また後でな」
「うん、一緒のクラスだといいね」
名雪と別れ、職員室をノックする。
「失礼します。今日からこちらでお世話になる相沢と言いますが……」
「ん……? おお、お前が水瀬の従兄だな」
……どうやら俺のことは職員室にまで知れ渡っているようだ。
「……とと、すまんな。俺がお前のクラスの担任になる石橋だ。お前のクラスには、ちょうど水瀬もいるから、わからないことがあったら、水瀬に聞いてくれ」
名雪と同じクラスか。どうやらもう名雪のささやかな願いがかなったわけだ。
「わかりました」
「おう、そういうことだから、もう行っていいぞ」
「は?」
「だから、もういいって言ったんだよ、ほれ、自分のクラスに行って来い」
なんというか、豪快な人だ。まあ、前の学校の教師陣も変人どもの塊だったが……
俺は職員室を後にし、自分のクラスへ行こうとしたのだが……
「……わからん」
……そういえば俺のクラスがどこにあるのかなんてぜんぜん聞いてなかったし、石橋も何にも言ってくれなかったし。それ以前に俺が何組になるのかさえ聞いてない。……仕方ない。また、職員室に戻って石橋に聞くか。それが一番の上策だろ。俺はもう一度職員室のドアをノックしようとしとき、
「あら、見かけない顔ね」
突然後ろから声をかけられる。声からして女子だろう。振り返ると、ウェーブが掛かった長い髪をした、可愛い、と言うよりは美人と言う形容が似合う女の子。
「ああ、今日からこの学校に通うことになったんだ、顔を知らないのも無理はない」
「あら、ということは……貴方が相沢祐一君?」
「知ってるのか?」
「ある意味有名人だからね。名雪の従兄と言うことで」
「……何で名雪の従兄というだけでこんなに注目されなきゃならん」
「まあ、知らなくて当然だけど、名雪もこの学校じゃ、有名人だからね。いい意味でも、悪い意味でも」
「……初めて知った」
「そうでしょうね。……ああ、自己紹介がまだだったわね。あたしは美坂香里。貴方と同じクラスになるわ。今日からよろしくね」
「一応知ってるとは思うが、俺は相沢祐一。祐一と呼んでくれていいぞ、香里」
「初対面の人をファーストネームで呼ぶのもどうかと思うけどね、相沢君」
「……手厳しいな」
「ま、いいけどね、どう呼んでくれても」
「すまん」
「いいわよ。それより、自分のクラスがわからないんでしょう? 案内するからついて来て」
「おお、助かるぜ」
「いいわよ、石橋のことだから、肝心のことは絶対言わないと思ってたからね」
「……そうなのか?」
「そうよ、覚えておくといいわ」
それ、教師としてどうなのよ?
香里に案内される形で教室に着く。
「ここがわたしたちの教室ね。2−Fは学校の端っこだから覚えやすいでしょう?」
「まあな」
方向音痴の俺としては非常に助かる」
「へえ、その歳で方向音痴なの?」
「……何で分かった?」
「口にしてたわよ」
「がはぁっ」
ひ、ひさしぶりにこの癖が……!
「……本当に面白い人ね」
「……そう評価されたのは今日で何回目だろうな」
「ということは皆そう思ってるということね。いいことだと思うわよ」
「……俺は平々凡々な生活のほうが性にあってるんだ」
「あきらめなさい、そんなもの」
「ぐはっ」
完全にKOされ、打ちひしがれている俺。
「おい、二人とも何してる。もうHRと教室移動始めるぞ」
石橋の声が聞こえ、我に変える俺。
『すみませんでした』
「ほれ、早く教室に入れ」
石橋に促され、教室に入る俺たち。
「席は適当なところに座ってくれ……ああ、ちょうど水瀬の手前が二つ開いてるな」
ニヤニヤ顔で笑う石橋。……間違いねえ、こいつ楽しんでやがる。ニコニコと笑顔で手を振る名雪と俺を見て、石橋は新しいおもちゃを見つけた子供のような笑いを浮かべていた。
「一緒のクラスになれてよかったね、祐一」
「そうだな」
移動中に、名雪が話しかけてきた。
「それにしても香里ともう知り合いになってるからびっくりだよ」
「ああ、職員室の前で知り合った」
「そうなんだ。香里っていい子でしょ? 仲良くしてくれると嬉しいよ」
「そうだな、俺も香里とは仲良くやれそうだな」
「うん、そうだね」
「ちょっと待ったぁぁぁぁぁぁ!!」
突然男子の声が俺たちの会話をさえぎった。振り向くと、そこには整った金髪に、ちょうどつむじに当たるところにアンテナもどきの跳ねた髪が特徴的な男子生徒。
「貴様、美坂とどーゆー関係だ! 100文字以内で説明しろこの野郎!!」
「……何だお前」
「俺か? 俺は北川潤。美坂の……」
「彼氏じゃないでしょ。ただのクラスメイトよ」
「美坂〜」
泣きそうな声で北川とやらは、情けない顔で香里を見ていた。
「……ああ、お前も折原と同じタイプか」
「何だ、折原も知ってるのか?」
「知ってるも何も、今朝寮で知り合った。いきなり人の顔に落書きしようとしやがったから、右ストレートで張り倒してやったんだ」
「わ、道理で今朝から折原君と仲がいいと思ったんだ」
「寮? ……ああ、そうか。お前が水瀬さんの言ってた従兄だったのか」
「気づくのが遅いぞ、自称香里の彼氏」
「自称じゃねえ!! 俺は正真正銘の……」
「うるさいわよ、北川君」
「美坂、せめて続けさせてくれよ〜」
「相沢君、北川君の戯言に耳を傾けちゃ駄目よ」
「分かった分かった、それにしても、三人とも仲はよさげだな」
「うん、香里とわたしは親友なんだよ」
「そうね、あたしも名雪と秋子さんには、随分と助けられたからね、色々」
「へえ……」
感慨深そうに遠い目をする香里。それを見て、この二人にはとても強い絆があることが遠目に見ても分かる。
「そうだ、名雪。例の事なんだけど……」
「あっ、あのこと、考えてくれたの?」
「ええ、よく考えさせてもらったわ。結論から言うけど、こちらからお願いしてもいいかしら?」
「うん、大歓迎だよ! 今日お母さんに話は通しておくね!」
「お願いね」
「……何の話だ? 水瀬?」
「香里もね、わたしたちの寮で暮らすことになるんだよ」
「そういうことね。何かあったときは、よろしくね、相沢君」
「おう、よろしくな」
「何いっ、聞いてないぞ、美坂!!」
「貴方に言う必要があるかしら?」
「そんなこと言うなよ、美坂〜」
「そういえば、北川、折原を知ってるようだが、有名人なのか? あいつ」
「ああ、転校してきたお前は知らんだろうが、あいつは俺たちの学年、いやこの高等部でも屈指の有名人だぞ?」
「……マジでか? どんな風に?」
「まあ、一言で言うなら、バカだな。学祭とか、体育祭とか、面白い行事の時には率先して参加して、変なことやらかすんだ。他にも、放課後チキチキカップリング大会とか、クリスマス記念の無断美少女コンテストとか、卒業記念のゲリラライブとか、伝説には事欠かない奴だな」
「……それで停学になったりしなかったのか?」
「ああ、なったぞ。もっとも、本人は満ち足りた表情だったのを覚えてる」
「信じられん……」
「いいじゃないか、退屈しなくて」
「まあ、そうだな……その辺については同意する。俺もそういうイベントは嫌いじゃないからな」
「話が分かるな、相沢。……と、呼んでいいか?」
「おう、いいぞ、北川」
こんなやり取りをしながら、俺たちは始業式の会場、講堂へと向かうのだった。
始業式のプログラムはさらさらと流されていく。開式の言葉から始まり、担任紹介、校長の長話とお決まりのパターンで次々と進行していく。
「続きまして、生徒会長挨拶。久世貴明君」
「はい」
厳かな声で、一人の男子が前に出る。切れ長の眼鏡をかけた、知性的な男子。
「……あれが久瀬貴明君。うちの寮の人だよ」
小声で、名雪が壇上の男子を説明する。ああ、あいつがそうだったのか。斉藤とは仲がいいらしいとは聞いているが……俺はちょうど席の前にいた斉藤に声をかける。
「斉藤、斉藤」
「……なんだ? 相沢」
「久瀬ってどんな奴なんだ?」
「黙って聞いてろ。いやでもそいつのなりが分かるから」
斉藤にそういわれては、俺も黙って彼の演説を聞くしかない。久瀬はしばし目を閉じ、数秒思案して、口を開く。
「……ご紹介に預かりいただいた久瀬貴明と申します。この度は、若輩者の僕如きが、こうして生徒会長という大命を授からせて頂き、光栄に思います。僕は皆さんがよりよい学園生活を送るに当たって、何をすべきなのか、春休みの間、ずっと考えていました。短い期間の中、僕の出した結論は、この学園の生徒一人一人が、最高の学園生活を演出する重要な役者であること。僕はたとえて言うならば、学園生活を最高の映画に仕立て上げるための監督、生徒会は映画作成の各スタッフと言ったところでしょう。しかし、僕はあえて、役者の皆さんには複雑なシナリオを提供しません。無論、最低限の演出は用意しますが、そのシナリオは全て皆さんのアドリブです。そうすることで、皆さんは最高の演技を見せ、僕が作るこの映画は素晴らしいものになると信じています。どうか、皆さんがより良い学園生活を送れるよう、僕も、僕ら生徒会も全力を尽くします。どうか皆さん、最高の演技を僕に見せてください。……以上の言葉を持ちまして、僕の挨拶を終了とさせていただきます」
礼をする久瀬。……なるほど、言葉には薄っぺらなものを感じさせない重みもあり、たとえを使ってその内容を分かりやすくしている。何より、学校のこと、生徒のことをしっかり考えられる奴のようだ。それを証明するかのように、生徒たちから拍手がやまない。
「……お前の言うとおりだったぜ、斉藤」
「そうだろう? 俺の自慢の親友だ」
自慢げに語る斉藤。だが、その横で、何人かのクラスメイトが、露骨に嫌悪の目を久瀬に向けているのを俺は見逃さなかった。
「……なあ、久瀬って、嫌われてるのか?」
「……隠せないな。まあ、あいつらは昔の貴明を知ってるやつらだからな」
「昔?」
「今でこそ人格者だが、昔のあいつはもっと独善的で強引な性格をしていてな、中2のときにも生徒会長を務めたんだが、独裁をやらかして、全校生徒から嫌われちまったんだ」
「……そうだったのか」
「で、あることをきっかけに猛省して、自分から生徒会長を辞退し、それからは生徒のためになるような行動を取ることを率先して行ったんだ。理不尽な理由で学園祭を中止にしようとした校長に直談判もしたこともある。とにかく死に物狂いで自分の信頼を回復して、ようやく今年になって生徒会長に返り咲きした、と言うわけだ」
「……で、あそこの奴らは昔の久瀬を知ってるからこそ、信頼できないと言うことか?」
「それもあるが、今回、それから中2の生徒会選挙にはいかさまがあったんじゃないか、と言う疑いもあるからな」
「なんでだ?」
「貴明の叔父がうちの学校の理事長だからさ」
「……なるほど、理事長の圧力があったんじゃないか、と邪推してるわけか」
「そんなところだ。まあ、それは絶対にないけどな」
「だろうな」
「俺はお前なら、あいつのいい理解者になれるだろうと思ってる。あれで結構敵が多い奴だから、俺としても、お前にはあいつを知ってもらいたかったんだ」
「安心しろ、少なくとも、今のところはあいつに悪い感情は持ってない。……まあ、何事も会話しないと分からないがな」
「……よろしく頼むぞ」
わかった、と返し、斉藤との対話は終わる。それと同時に、閉式の言葉を、壇上で教頭が宣言していた。
SHRは今後の授業日程と、連絡事項で終わり、晴れて今日の学校は終了である。
「祐一、今日はどうするの?」
名雪が声をかけてくる。
「んー、秋子さんからは早く帰って来いとは言われてるけど……時間はあるしな」
「じゃあ、わたしが街を案内してあげようか?」
「……いいのか?」
「もちろんだよ」
「じゃあ、お願いされるか。名雪、街を案内してくれ」
「うんっ」
名雪に率いられ、街を案内される俺。7年ぶりの景色のはずなのに、それらはとても新鮮に感じる。
「ここが商店街だよ」
「ああ、昨日寮に来るときに通ったな。ゆっくり見てる暇はなかったけど、結構にぎわってるんだな」
「うん、この辺では一番にぎわうところじゃないかな」
「で、そこの通りを入ると、住宅街に出るんだよな?」
「わ、どうして分かったの?」
「……昨日迷った」
「あ、あはは……」
苦笑いを浮かべる名雪。……くそう、かっこ悪すぎだぞ、俺。
「あ、でも、あそこの路地裏は絶対入っちゃ駄目だよ」
「なんでだ?」
「……すごい荒れてるんだ、あの辺り」
「なるほど……」
どこも似たような場所はあるわけか。
「ね、祐一が前にいた学校ってどんなところなのかな?」
「……教師が変人ばかりだった」
「そうなの?」
「ああ、伊達政宗に傾倒して戦国時代ばっかりやりたがる日本史教師とか、アフロの数学教師とか、魔術学を教える保険医とか、な……」
「……すごい濃い先生たちだね」
「その分退屈はしなかったがな」
「うん、すごく楽しそうな学園生活だろうって、分かるよ。ね、もっと向こうの学校のこと、聞かせてほしいな」
「聞いてどうする?」
「だって、わたしは祐一がいなくなった7年間を、ぜんぜん知らないんだよ?」
……そうだった。俺は名雪とは7年の間、連絡を取らなかったのだから。名雪が俺のことを知りたがるのも当然か。
「よし分かった。とびきり面白いクラスメイトの話をしてやろう」
「あ、聞きたい聞きたい!」
「おう、そいつはな……」
俺は名雪と前の学校の話で語り合った。俺と名雪の間にある、7年間の空白を補うように……
「暗くなってきたね」
「そうだな、そろそろ秋子さんの所に帰るか」
「うん」
夕暮れ時、並んで帰る二人と言うのは、なかなか絵になるんだろうな。
「そうだ、今日は一日だけ、病院から寮に戻ってくる人がいるから、その人も紹介するね」
「病院? なんでだ?」
「うーんと……交通事故でね」
「そりゃついてないな」
「うん……でも、5月くらいに退院できるらしいから、そのときは仲良くしてあげてね?」
「もちろんだ」
会話をしているうちに、いつの間にか、寮に着いた俺たち。
「ただ今、お母さん」
「お帰りなさい、名雪」
「ただ今、秋子さん」
「祐一さんも、お帰りなさい。みなさんはもうそろってますよ」
ロビーには、折原たちを始め、朝食にはいなかった久瀬や、ギプスを足につけ、松葉杖をついている女の子、もう一人の小さな女の子が待っていた。帰ってきた俺を見、久瀬が俺に歩み寄る。
「やあ、キミが相沢君か、英二から話しは聞いている。もう知っていると思うが、僕が久瀬貴明だ。同じ寮に住むもの同士、仲良くやれたらいいと思っている」
「おう、俺が相沢だ。会長挨拶はなかなかよかったぞ」
「ふふ、そういってくれると嬉しいよ。先生から渡された原稿を破棄して、アドリブでやった甲斐がある」
「……マジで?」
「マジだ」
つまり、あれは久瀬自身の言葉。偽りなき本心、ということか。……まいったな。
「……すごすぎてもう何も言えないな。まあ、よろしく頼む」
「ああ、よろしく」
がっちりと握手をする俺と久瀬。
「あらあら、男の友情ですね」
「うー、ちょっとうらやましいんだよ」
微笑む秋子さんと、なぜかうらやましがる名雪。久瀬との短い挨拶が終わると、ギプスの女の子が声をかけてくる。長い髪をツインテールにした、可愛い女の子だ。
「はじめまして、相沢君。あたしは七瀬留美。名雪から聞いたけど、あたしも相沢君と同じクラスになったみたいなの。退院できるのは5月からだから、授業で分からないところがあったら教えてね」
「……ああ、よろしく」
会話を聞いていて、俺は七瀬さんの挙動が、どこか作ってるように感じられた。そう、何か無理をして背伸びしてるようなそんな感じ……
「七瀬、そんなしおらしい自己紹介なんてつまらんぞ。お前らしい自己紹介をしてみろ。タウンページを素手で破って見せるとか……」
「やかましい、折原!! そんなことできるわけないでしょ!! ……って、あ……」
やっぱりか。今のが彼女の地なのだろう。そっちのほうが自然に見える。
「え、えーと、相沢君。今のは無視してね。一応、私乙女だから……」
「いい、無理しても見ててつらいだけだし、素の七瀬さんの方が俺は面白いと思うし」
「そ、そう……かな?」
「ああ、俺はそっちのほうがいいと思うぞ」
「そう……うん、じゃあ、あんたの前では素で話させてもらうわ。あ、でも、素のあたしをばらしたら怒るわよ? これでも、乙女を目指してるんだから!」
「わかったわかった、強調しなくてもばらしたりしないって。じゃ、来月からよろしくな?」
「ええ、よろしく……ぎゃああああああああああああ!!」
突然、七瀬さんが絶叫する。……どうでもいいが、“乙女”を目指すのなら「ぎゃあ」はやめたほうがいいと思うぞ。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!! 繭、お下げ引っ張らないで!!」
「みゅ〜♪」
七瀬さんのお下げを、さっきの小さな女の子が掴んでいる。……これは痛そうだな。
「繭、離してやれ」
「みゅ〜……うん、わかった」
折原の叱責で、繭と呼ばれた少女はお下げから、手を離した。
「みゅ〜……」
しかし、それでもじっと七瀬さんのお下げを気にかけている繭。
「繭ちゃん、わたしが遊んであげるから、向こうに行こ?」
「みゅ〜♪」
長森さんがすかさず繭の手を引っ張り、奥へと連れて行った。
「あの子は椎名繭。うちの最年少で中学3年生だ」
「ちゅ、中3!? 俺はもっと下かと……」
「……そう思われても仕方ないかもしれないが、れっきとした事実だ。彼女は事情があってうちの寮で預かってる。折原君と長森さんがあの子の世話を一番焼いているな」
「事情?」
「……深くはさすがに話せない。すまない」
「いや、いい。俺もそこまで深く立ち入ろうとは思わないし」
「ああ、そうしてくれると助かる。……それにしても英二の言ったとおりだ。君は実に面白い人間だな」
「もういい加減その評価にも慣れた……」
「悪い意味で言ってるんじゃない。七瀬さんが素をさらすなんて、折原君ぐらいのものだと思ってたんだが」
「そうなのか?」
「僕らの前でも、いつもあんな感じで“乙女”らしく振舞おうとするんだが、折原君がいつもそれをああいう風に茶々を入れて、うっかり地の自分を見せるんだ。まあ、折原君の場合はアクシデントが原因だが」
「ふーん……」
「対話で素の七瀬さんをさらけさせたのは、多分相沢君が初めてじゃないか?」
「喜ぶべきなのか、それ?」
「喜ぶべきだと思うよ。普通は初対面の人にいきなり素の自分をさらすことなんて、なかなか出来ないからね。君にはそういう不思議な魅力があると言うことだ」
「意識したことはないな」
「だろうね」
「皆さん、食事の準備が出来ましたよ」
「……秋子さんの料理が出来たみたいだな。冷めたらもったいない」
「そうだな。よし、今日は大いに食って飲もうじゃないじゃないか!」
「……あまり羽目をはずすなよ」
苦笑交じりに久瀬は忠告した。どこまでも真面目な奴だ。
並べられたのは色とりどりの料理。エビチリ、フライドチキン、牛丼、てりやきバーガー、寿司、イチゴサンデー、エトセトラエトセトラ……なんか微妙に料理がかみ合ってないように感じるんだが、気のせいじゃないよな?
「美味いっす、秋子さん! 至福っす!」
フライドチキンをほおばりながら、折原が、芝居がかった賛辞を言う。その様子を見て、みっともないよ、と長森さんが折原をたしなめた。本当、あの二人って仲がいいよな。
「あらあら、大げさですね、浩平さん」
「そんなことないよ、お母さん。わたしだってこんなおいしい料理は作れないよ」
「それでも今日のは大勢の方に出すにはまだまだね。あと一工夫が足りないかしら?」
「謙遜ですね、秋子さん。むしろこれ以上の工夫がどこにあるのか僕には分からない」
「甘いぞ、貴明。今日のレシピなら、もう一工夫すれば、充分レストランを開いても通用する料理になれる」
「さすが英二さんですね、よくお分かりになりました」
「何!? お前、料理するのか!?」
「……初対面の奴にはよく言われる」
やや不機嫌になったのか、斉藤がぶすっとした目で俺を見る。
「すまん……」
「いや、これで英二の料理はかなりのものだぞ。都合で秋子さんがいないときには、主に英二が僕らの晩飯を任されるくらいだ」
「ちなみに今日の料理にも、俺が多少手を貸したものもある」
「いつも助かります、英二さん」
「お安い御用ですよ」
ドンと胸を叩く斉藤。その姿はとても頼もしい。
「……そうだ、今朝折原が言ってたんですが、秋子さんは手作りでジャムを作るそうですね?」
ぴくっ
一瞬にして、場の空気が凍った。……なんだ、何事だ? 俺、まずいことを言ったのか?
「あら、祐一さん、私のジャムに興味があるんですか?」
「はあ、まあ……折原がこの世のものとは思えない味だと……」
「あら、うれしいことを言ってくれますね」
ニコニコと嬉しそうに微笑む秋子さん。対照的に、見れば、真っ青な顔をしている他の面々。……いや、ただ一人、折原だけが嫌ーな笑みを浮かべてこっちを見ている。そう、たとえて言うなら、悪戯に掛かった悪たれを笑うような、そんな笑み。
「祐一さん、ちょっと待っててくださいね」
言い終わると、厨房の奥へと引っ込んで行く秋子さん。
「……死んだな、あれは」
「……ああ、彼の冥福を祈ることしか僕らには出来ない」
『勇者なの』
「祐一さんも可愛そうに……」
「……祐一、グッドラック」
「浩平、ひどすぎるんだよ……」
「折原、あんた悪魔だわ……」
「くっくっく、さあ、最高のリアクションを俺に見せてみろ、相沢」
「えっと、えっと、祐一、ふぁいと、だよ」
小声で何事かをつぶやく皆。……なんかすごい嫌な予感がしてきたんだが、もう引き返せる状況じゃないみたいだな。
「お待たせしました、祐一さん」
秋子さんが持ってきたのは、何の変哲もなさそうなオレンジ色のジャム。……おいしそうなんだけど、あまり強烈に甘いのはちょっとな……
「どうぞ」
にこやかにジャムをクラッカーに塗り、それを差し出す。俺はそれを手に取り、クラッカーを一口……
!!!!!!!!!!
こ、これはなんだ……? 確かに今まで味わったことがない味だ。甘いでもなく苦いでも、辛いでもなく……とにかく意味がわからない味。あまりの情報に脳が混乱をきたしているのが分かる。そして、その脳がパンクし、フリーズするのはごく自然なことであった。
最後に見たのは、敬礼をしながら、倒れゆく俺を眺める皆の姿だった。
折原の言っていたことは間違っていなかった……確かにこの世のものとは思えん味だった。味だったが……薄れゆく意識の中、俺はもし目が覚めたら、折原に30連エアリアルコンボをぶちかますことを心に固く誓ったのだった。
Shadow Moonより
今回は寮生総登場で、にぎやかな展開ですね(w
浩平君がいる以上、祐一君に平穏な生活は訪れないでしょうが(爆)。
しかし、Kanon、ONEで双璧を成す嫌われキャラの久瀬が意外にも更正していたのは驚きでした(汗)。
さてさて、朝のニュースのシーンで、寮生達が何やら普通ではない予感がひしひしと。
彼、彼女達がどのような行動を見せていくのかとても楽しみです。
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